Pulse D-2

desire to stratosphere

 夜半に降り始めた雨は勢いを失うことなく暗い空から落ち続けていた。夜明け間近に当麻はベッドに入り、その音を聞きながら眠りにつく。滝壺の底へと引き込まれていくような、容赦なく世界を遮断しようとするかのような雨音だった。
 次に感じたのは動き回る人の気配だ。決してうるさくはない、落ち着いた気配。もうそんな時間? と思いつつ、当麻は足音に耳を澄ます。その背後に雨が潜り込む。
『まだ降ってるのか』
 外へと意識が移る。結構な雨脚だ。電車はきちんと動いているだろうか。駅までの道は厄介だな。電車内は蒸し暑いだろう――と、ここまで考えて、
『そっか、だから早めに出るのか』
 と、出勤準備をしているらしい征士に気持ちを向けた。
 少なく見積もっても、晴れの日より二十分は早く家を出るのだろう。征士はいつもそうだ。当麻はと言えば常に自宅にいるため、こんな時はラッキーだと思う一方で少しの同情と微かな後ろめたさを感じたりもする。
 征士の通勤の間だけでも雨を止めることができたらいいのに。それとも、雨雲を見下ろすくらいの高さまで行けばいいんだろうか、などと考えてもみる。
『成層圏まで飛んでいけーってか』
 できないし、征士も望まないだろうけれど。
 そんなことを思って一つ静かな息を吐いた。
 雷は鳴っていない。強風の気配もない。ただ、途切れることのない雨音の間を縫って近づいてくる足音を当麻は感じる。
 寝室の扉が開く。きっともう征士は準備万端で、出かける前に自分の様子を確かめに来たのだろうと思う。早起きをしろと言わなくなった代わりに、きちんと食べていること、しっかり眠っていることを確認するようになったのはいつからだろう?
 今日は少し冷えているから、ワイシャツはきっと長袖だ。もしかしたら上着も着ているかもしれない。濡れても構わない靴を履いて、いつもの大きな深緑色の傘を差して出て行くのだろう。
 ここで「会社なんか休んじゃえば?」なんて言ったら、彼は多分また呆れてみせる。けれど、それに続けて説教じみたことを言わなくなったのは、言うだけ無駄と諦めたからなのかそれとも別に思うところがあるからなのか……
『普通は年寄りのほうが口うるさいって言うけど、こいつは逆だな』
 思わず口元が緩む。征士はそれを見逃さなかったようで、
「何を笑っている」
 と問う声が部屋の中に低く落ちた。
 目を開けようか、このまま閉じていようか、少しだけ迷う。相手を見ずに話すことも昔はよく注意されたっけ、と思い出しながら、重い瞼はそのままにする。
「雨の日って、会社行くの嫌じゃね?」
「まあ、多少、煩わしい思いはするな」
「あ、俺は雨じゃなくても嫌だけど」
 声の調子に苛立たしさはない。時間はまだ大丈夫そうだと当麻は判断する。
「通勤の必要はないのだからよいではないか」
 さらに近づいた声に、
『昔はここで「甘ったれたことを言うな」的な話になったよな…』
 とやはり思い出して笑いそうになるが、それで? と重ねて尋ねてきた征士に思い直して言葉を続けた。
「確かに雨だけど、それは俺たちが地上で生きてる証拠の一つかもな、って思ったわけ」
 ベッドの端が少し沈む。征士が腰掛けたようだ。短い沈黙が生まれ、悩んでる悩んでる、と当麻は内心おもしろがる。
「高度10000メートルまで行けば、そこはいつでも快晴だ。雲を越えて太陽に近づき、それからしばらくは高度を上げるにつれて気温も上がる。宇宙に近づいてるのに不思議だよな」
 明るい空間を思い描く。そこはこの街よりも静かだろうか。広がる空を漂えたなら、征士の煩わしさも失せるだろうか。
「けど、そこじゃ俺たちは生きられない。つらくても、厄介なことがあっても、この地上でもがいていくしかない。雨や風に煩わされながら、それを糧にもしながら、自分たちの力で越えていくしかない」
 風雨も雪も他人の言葉も、地上は不快なことだらけ。けれど、どれも必要なもので、時にやさしく日々を彩るものだ。
「…なんてのは朝からまじめに言うようなことでもないけどな」
 と当麻は笑ったが、その胸のうちは伝わっただろうと確かに思う。
 少しだけ布団に顔を埋め、再び雨音に耳を澄ます。長く降り続ける雨は間近の梅雨入りを感じさせる。すぐそこにいる愛しい相手の生まれた季節。成層圏にいたのでは感じることのないだろう時。
「次の旅行は飛行機を使うか」
 雨の音に耳が慣れた頃、同じ調子で鼓膜を揺らす声がする。彼はいつからこんな柔らかな声を掛けてくれるようになったのだったか。その時の表情を、自分は独占していると思っても間違いないだろうか。
 好奇心に勝てず、片目だけ開けて視線を上げる。薄暗い部屋の中でもわかる、眼差しの柔和さ。予想通りの静かな笑み。彼の纏う綺麗でやさしい空気を守りたいと思う。
「賛成」
 短く告げて瞼を下ろす。笑う気配と髪に触れる指先。
「行ってくる」
「はい、気をつけて」
 雨の中でも背筋を伸ばして歩く征士の姿を瞼の裏に描きながら、当麻はゆっくりと眠りについた。

掲載日:2009.09.22 / 6月8日 成層圏の日

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