Pulse D-2

check the leak in the roof of mind

 つい一昨日も電話してきたというのに、何の用があるのかまた伸から電話がきた。征士はいるかと聞くので、
「まだ帰ってきてないぞ」
 と返したら、
「随分遅いね。ほんとは帰ってきたくなくて外で時間つぶしてるだけだったりして」
 などとふざけたことを言う。
「何だよ、それ。あいつがするか、そんなこと」
 今夜は付き合い酒、と呆れて言えば、ふうん、と納得とはほど遠い声が届く。
「君たち一緒に暮らし始めてそろそろ三年だよね。倦怠期とか三年目の浮気とか、あっても不思議じゃないよ」
 古い歌じゃあるまいし。
「用があるなら直接征士の携帯にかければいいだろ」
「あれ。そんなことしたら君が嫌がるじゃないか。まあ、僕としてはそれも面白いけどね」
「…絡むなぁ」
 これは絶対、憂さ晴らしだ。何か気にくわないことでもあったんだろう。
「暇ならこっち来て待ってりゃいいだろ。征士が帰ってくるまで好きにしてろよ。悪いが俺はいま忙しい」
 嘘じゃない。この時間は俺のゴールデンタイムだ。冴えてる間に終わらせたい仕事があるのだ。だが、伸の答えは当然のように拒否だった。
「嫌だね。この雨の中、誰がわざわざ君たち二人揃う場所になんか行きますかって。いちゃいちゃされたら腹立つし、喧嘩されたら犬も食べちゃくれないし」
 嘘をつけ。どっちにしても面白がるくせに。
「あーそうですか。じゃ、帰ってきたら征士から掛けさせる。それでいいだろ。切るぞ」
 受話器を耳から離そうとするが、ねえ当麻、と呼び掛けられて仕方なく手を止める。こういうしつこさは本当に珍しかった。
「何だ」
「こういう話、知ってる?」
 日本の昔話だと続ける。
「登場人物はおじいさんとおばあさんと泥棒と狼と猿。泥棒と狼が家に潜んでいることを知らずに、老人二人が話すんだ。泥棒よりも狼よりも怖いもの、それは『ふるやのもり』だってね」
「ふるやのもり? 何だそりゃ」
 森? 銛? 盛? と考えてみるが、伸は答えてはくれない。
「今夜はふるやのもりが来そうだね、そら来た! って言い合う二人に、泥棒と狼は逃げ出すんだ。得体の知れないふるやのもりを怖がって、自分の背中にふるやのもりが取りついたと、強いはずの狼が震え上がって必死に逃げる」
 狼が恐れる? 取りつく? 生き物なのか、それとも怪談の類なのか?
「わかるかい? おじいさんとおばあさんはとても貧乏なんだ。古い小さな家に住み、二人の財産といえば子馬が一頭いるだけ。話しているうちに外では雨が降り始める。そして訪れるふるやのもり……」
「わかった!」
 叫んだ途端に笑いがこみ上げてきた。
 ふるやのもりは、古屋の漏り、だ。
「そう。二人が怖いと言っているのは、雨漏りのことだよ。でもね、当麻、笑い事じゃないよ」
 ぴしりと言われて首を傾げた。何だろう。伸は何を言おうとしているのか。
「知らないうちに、見えないところから、じわじわと浸食して生活の基本を脅かすんだ。家は、冷たい雨から自分たちを守ってくれるはずなのに、その約束が果たされない。それを知った時のショック、知ってなお甘んじるしかない辛さ――笑ってないで、君も気をつけな。征士には、君の所にいなくちゃいけない理由は何一つない。家に閉じこもりっぱなしの君と違って、毎日多くの人に会い、話し、一緒に仕事をして、時には食事をしたりお酒を飲んだり、助け合ったりいがみ合ったりしてるんだよ。彼を好きな人間は多い。敵もないわけじゃないけど、だいぶ立ち回りがうまくなったみたいだ。だから余計に頼りにされる。そして更に好かれる」
「おい、何があった。征士じゃなきゃ話せないことか?」
 もしかしてとても深刻な状況なんじゃないのか。ここで電話を切ったらまずいんじゃないか。思って尋ねてみるが、伸は短い沈黙の後に低く言った。
「――うん。話せないこと」
「…そっか」
 呟いただけで口を閉ざした。
 雨音が大きくなる。今年は突然の土砂降りが多い。征士、あまり濡れずに帰ってこられるといいな。
 考える間も、電話の向こうは静かなままだ。こういう伸を俺はあまり知らないが、もしかしたら征士はずっと多く見てきているのかもしれないとふと思う。
「あ、帰ってきたかも」
 鍵を開ける音がする。コードレスの子機を手にして廊下に出る。
「伸から」
 濡れた傘に気を取られている征士に、おかえりの言葉ももなく電話を渡して鞄を受け取る。タオルを出して鞄を拭くと、征士の視線がもの言いたげに追ってくる。不在を詫びる声、小さく頷く姿。
「それで?」
 言葉を返しながらリビングへ入ってきた征士の背に軽くタオルを当てる。ざっと背中と肩の水滴だけ拭い、あとは本人にまかせて自室へ入った。
 作業途中のパソコンは、ディスプレイをスクリーンセーバーに切り替えていた。宇宙を模した白・赤・青の点が明滅と回転と消滅と生成を繰り返す。しばらくそれを見つめてから顔を上げ、窓のカーテンをつまみ上げる。空は暗いが家々の明かりが夜を照らす。その光に雨の軌跡が浮かび上がる。
「気晴らしが必要なときは声を掛けてくれ。付き合おう」
 隣の部屋から征士の声が聞こえた。普段どおりの静かな声だ。聞き耳を立てたくなるのを抑えて、パソコンを仕事の画面に戻す。
 だが、すっかりやる気が失せた。ぼんやりと天井を見遣る。そのうちに、ドアをノックして征士が顔を見せた。
「ごめん、だそうだ」
 上着を脱ぎネクタイを外した姿で、ただいまと一言告げてから征士はこう口にした。伸が、ちょっと絡んじゃったから、と言っていたらしい。
「人間関係でトラブルがあったらしくてな。私も知っている相手だったから相談に乗っていたのだ」
 人付き合いについて伸が征士に相談するというのも何だか不思議な感じがしたが、少し前に大きめのプロジェクトで一緒に仕事をしたからその関連なのかもしれない。
「伸はお前に弱みを見せたくないのだろう。つい物言いが挑発的になると反省していた」
「――なんだ、わかってんじゃねーか」
 憮然として呟く。まったく迷惑な話だ。反省するぐらいなら最初からやるなってんだ。と、本人に言えたらどれだけ楽か。
 ますます不機嫌になるのが顔に出たのだろう。征士は一つ苦笑して話の方向を変えた。
「雨漏りに気をつけろと言われたが、何のことだ?」
 ああ、それなぁ、と少し考える。そうしながら立ち上がり、入口に立つ征士の前へと歩く。
「大丈夫。心配いらない。…少なくともお前は」
 征士の肩に肘をつく。左手を背に、右手を髪に。後ろ髪に指を絡ませる。雨のにおいと煙草のにおい。征士は煙草は一切吸わないから、酒の席でついたものだろう。それとも、そういう場所では征士も煙草を吸うのだろうか。
 俯く頬に、征士の頬が重なる。顔を上げると鼻の頭を軽く触れ合わせてきた。思わず笑いが漏れた。
 頭を抱え込み唇を合わせる。深く口づけると征士も応えてくる。数え切れないほど交わしたキスに、嘘やごまかしが含まれていたこともあったのだろうか。
 勿論、考えない訳じゃない。征士に嘘はないと信じてはいても、どうしても拭いきれない、惚れてもらっているという感覚。征士に言えば、馬鹿げた思い込みだと一蹴されるかもしれない。それでも、他の誰にも感じない種類の引け目に似た思いをいつもどこかで持ち続けている。改めて指摘されればなおさら胸が騒ぐ。
 それがわかっているから、倦怠も浮気もあって当然、その時はその時と割り切ったつもりでいるだけだ。
 長いキスを解き、征士の唇が移動する。頬、耳元、首筋、胸。シャツの第二ボタンを外したところで、
「そんなに落ち込むようなことを言われたのか?」
 と、胸を伝って声が響いた。
 瞼を上げ、視線を落とす。怖い目だ、と思う。
「怒るな、違う」
 うなじを撫でて額を寄せる。触れ合う箇所が熱い。
「違う。伸のせいじゃない。俺が、わかりきったことを蒸し返して面倒くさく悩みかけただけだ。怒るな。こんなことで怒らなくていい」
 頬に触れる手があやすようだ。目の示す厳しい表情と手の持つ優しさと、どちらも俺のためだと知れば苦しくなる。
「すまんな。私は心が狭い」
 返る言葉に喉の奥で笑う。きっと苦笑しているだろう征士を見たくて顔を上げるが、泣き笑いになりそうでまた彼の肩に顔を伏せる。
 いい。そうやって、ちょっとのことでも気にしてくれるお前なら、俺も不安がらずにすむ。伸の言う雨漏りの心配など、これっぽっちもしなくてすむ。
「征士――」
 伝えたいことがありすぎると、言葉はちっとも役に立たない。だからただ、強く強く抱き締めて、雨の夜に征士と二人溶け合った。

掲載日:2009.09.22 / 6月11日 雨漏り点検の日

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