Pulse D-2

closely in the outdoor hot spring

 休日に映画を見た帰り、二人そろって征士のマンションへ向かう途中だった。
 当麻はふと、電車内の広告に目を止める。出入り口の扉の上部、横に細長い広告は、開発中の住宅地の新規区画販売を知らせるものだった。
「全戸温泉付きだって。いいなぁ。俺、ここ買おっかな」
 言われて征士も目を上げる。さわやかな写真が視界に入る。しばらく眺めて首を傾げる。少し職場に遠い。
「仕事はどうするのだ」
 征士が問うと、うーん、と当麻も眉根を寄せる。
「さすがに新幹線の定期代までは出してくれねーかなあ」
「余程の事情がなければ無理だろう」
 職場は都内。売り出し中の土地も関東圏ではあるが、毎日通うにはきついものがあると征士は思う。当麻ならなおさらだ。
「安いし気持ちよさそうだし、露天風呂とかにしてもよさそうじゃん。俺、露天好きだしさ」
 でも難しいよなー、と呟く。これくらいの分別はあるらしいと、視線を窓外へ移した当麻を一瞥してから、征士は再度、広告を見上げた。
 土地面積は百坪から。独自の温泉、建築条件なし。しゃれたタウン名が付けられ、公園やテニスコート、歩行者や自転車にも配慮された道が整備されているらしい。夏冬も穏やかで過ごしやすい土地のようだ。週末のセカンドハウスとしてもOKのように書かれているが、行く手間暇を考えると、征士の基準からはやはり遠いように思える。
 そんなことを考えながら広告に見入っていた征士に気付き、当麻が意外そうに二、三度瞬いた。
「あれ? けっこう気になる?」
 当麻を見遣ると、目を覗き込んでくる。面白がっているらしい表情を見せる青い目に、それとは何か少し違う感じの微妙に歪む口元が加わった。
「何だ?」
 短い問いに答えることなく当麻は視線を外したが、口はまだ笑いを浮かべたままだ。
「半端にするな。気になる」
「――電車の中でするような話じゃない。あとで」
 可笑しそうにそれだけ言って、当麻は扉にもたれた。
 JRから私鉄に乗り換えて数駅。駅から歩いて六分。いつでもすっきりと片付いた征士の部屋へ、当麻は月に二度ほど来るようにしている。だが、自分の部屋へは征士を決して入れない。
「私が行っても構わないぞ」
 征士も言ったことはあったが、当麻からは、
「いや、遠慮しとく」
 と真面目な顔で答えが返った。怪訝そうに視線だけで理由を尋ねた征士に、ぼそぼそとした声が届く。
「だって俺の部屋すげえことになってる」
「何を今更」
 昨日や今日の付き合いではない。当麻の部屋が散らかっていることなど言われなくてもわかっている。
「手伝うから片付けろ、などとは言わんぞ」
 学生時代には彼の部屋へ行くたび、征士はまず掃除をした。自分でやらないとどこに何があるかわからなくなって困ると当麻が言うので、いちいち当麻に確認しながらの作業になりあまり効率はよくなかった。そんなことも十年以上経ってみれば征士にとっては楽しい思い出だが、当麻が面倒がる気持ちもわかっているつもりだ。
「うん、まぁ、それは、言わないでくれたほうがありがたいのは確かなんだけど…」
 案の定、当麻は苦笑とともに口にして、その先を言いよどんだ。征士はそれ以上尋ねなかった。
 二人で家にいるときは、当麻が食事を作った。征士も料理をしないわけではないので一通りの調理器具はある。
「別に凝った料理するわけじゃないからこれで十分」
 当麻もそう言う。そして言葉どおり、簡単なサラダや炒め物、市販の出汁に放り込んだだけのような煮物が出てきたが、征士にはやはり懐かしい当麻の味だった。
 当麻が夕食の準備をしている間に征士は風呂の用意をする。初日に風呂を洗う征士の後ろから、ふいに当麻が声を掛けてきた。
「ここ、入浴剤入れても平気?」
 平気だと答えると、当麻は意外なほど喜んだ。
「俺んとこ駄目なんだ」
 湯の循環システムの関係で入れられないらしい。
「貰い物の入浴剤ならまだあったと思うが」
 征士が出したのは『ヨモギの湯』だった。
「…よくわかんないけど、試していい?」
 以来、気になる入浴剤は買ってみることにしている。
 今夜は香りにこだわった一品を使ったらしい。入浴時に感じた柑橘系の香りが、食後の当麻の髪にも微かに残っていた。うなじに顔を寄せた時、いつものシャンプーとは違うその印象に、一瞬、征士は動きを止めて伏せがちだった目を大きく瞬いた。
「いつから…」
「ん?」
 問うつもりではなかった呟きに、当麻が顔と声とを向けてくる。
「何でもない」
 征士はごまかすように頬を合わせ、当麻の耳の縁を甘噛みしてからその付け根へと口づけを落とす。だが、当麻の笑いを含んだ声は続いた。
「気になんじゃん」
 まるで先ほどの電車内での会話のようだと、征士は苦笑を浮かべて顔を上げた。右肘をベッドにつき、横になった当麻の前髪を左手で掻き上げる。
「いつから入浴剤を使うようになったのだ? …その、今の所へ移る前は使っていたのだろう?」
 質問の意図を考えているのか、薄暗い中で当麻は征士を見上げて小首を傾げる。その面差しはすっかり大人の男のものになり、時折、征士の記憶にはなかった表情を浮かべて過ぎた歳月を感じさせた。
 会わずにいた数年の間に興味を持ち始めたのだろうか、と思うこともまた、少しの焦燥を征士に抱かせる。こうして肌を重ねていてもなお心を揺らす自分が歯がゆかった。
 当麻が瞬き目線を外す。わずかに目を伏せ、低く告げる。
「かなり前だ。覚えてるかどうかわかんないけど」
 そこで小さく笑う。意外さに見開かれた征士の目を、再び彼はまっすぐに見つめた。
「最初にいいなって思ったのは、お前んちの風呂だったんだ。大学のころ住んでたアパート、部屋は狭かったけど風呂は妙に広かっただろ。手足伸ばせて好きだったんだ」
 ああ、確かに、と征士も頷いた。二十歳過ぎの頃、それは最も頻繁に二人が会っていた時期だ。バイトを終えた夜中に訪ねてきたのにはそういう理由もあったのかと、十四年も経って知り征士は笑いそうになる。
「三年の秋にレポートでへろへろになって転がり込んだとき、お前が入浴剤入りの風呂を準備してくれた」
 続いた言葉に征士は首をひねる。そうだっただろうか?
「あ、やっぱり、忘れてんな。サークルのマネージャーがみんなに配ったんだって言ってたぞ。香りは漢方っぽくて笑ったけど、いつも以上にほっとしてな。風呂出て布団見た途端に俺、寝ちゃって。目が覚めたら夜中で、お前は寝てたけど冷蔵庫に貼り紙がしてあった。冷凍のチャーハン、急いであっためたのに俺が食べなかったから冷蔵庫に入れてある、ってさ」
 ちょっと恨み言っぽくてまた笑った、と当麻は目を細める。
「…そうだったか? よく覚えているな」
「まあな」
 で、夜中に食べてまた寝た、と言い添えて右手を伸ばす。
「それ以来、入浴剤が好きです。ほかに質問は?」
 意外な展開に征士は言葉を失う。その髪に触れ、
「聞きたいこと、全部聞いとけよ。俺、いつもついはぐらかしちまうけど、それで変な心配してほしくない」
 と、当麻は希うよう静かな声を発した。
 当麻の髪から右手へと指先を移し、彼の手を取り唇を寄せる。指、掌、手首、と口づけていくと、当麻はくすぐったそうに小さく笑う。
「質問は?」
 と重ねて尋ねる唇を強く吸い上げてから、征士は間近に視線を合わせて低く問うた。
「では…お前の部屋へ行かせてくれないのは何故だ?」
 また考える間があった。今度は困ったような顔。
「散らかってるから嫌だって、言わなかった?」
「それは聞いた。今更関係ないとも言った。だが納得のいく説明は聞いていない」
 参ったな、と当麻が呟く。再び目をそらす彼の頬に、征士はなだめるようなキスを落とす。
「本当に嫌なんだ。その、何て言うかさ……わざわざみっともないとこ見せたくない、みたいな――」
「昔はそうは言わなかった。散々見てきたではないか」
「そりゃ、だって…あれだけ一緒にいりゃ……」
 それでは一緒にいないから駄目なのだという理屈になってしまう。そうではないのだと当麻も口をつぐむ。
「どんなものであれ、お前の暮らしが見えて嬉しいがな」
 ため息混じりに征士が言うと、当麻はわずかに上目遣いになった。
「――お前も昔はそんなこと言わなかった」
 言わなくても当たり前に見せてくれたから――と声にしかけて征士は呑み込む。当麻が何かを考えている表情をしていたからだ。
「変わったんだよ、俺たちは」
 寂しい言い方をする、と思った。自分たちの関係を一からやり直さなければならないような思いに覆われる。だが、続いた言葉は別の意味を与えてくれた。
「何でも見せ合える親友じゃなくてさ――多分、かっこつけたいんだ、俺。お前の前で」
 伏せた瞼が彼の照れを感じさせる。いいところばかり見せたい、それは恐らく自分も同じだ。友人としてではなく、たった一人の特別な相手として意識したときから、似た気持ちを持ち続けていたと思う。当麻とは違う形で隠している部分が自分にもあるのではないだろうか。
 そう思い、考え込みそうになる征士を、やはり当麻の言葉が浮上させる。
「もう一つ、変わったところ教えようか」
 言って征士を見上げた目は、打って変わって揶揄するような色を見せている。ころころとよく変わる表情に征士は懐かしい感動を覚える。
「あのな」
「何だ?」
 当麻につられて口元がほころぶ。自分に対してこんなことができるのも当麻だけだと改めて気づいた。
「さっきの話の続き」
 あとでって言っただろ、と口にして一つ瞬く。
「露天風呂も同じようなもんだ。好きな理由は、お前」
 無意識に征士の眉根が寄る。電車の中でするような話ではないと言っていなかったか? 私は当麻のために露天風呂を用意したことはないはずだが? と、ますます難しい顔をする征士に、
「悪い意味じゃないって」
 と当麻は笑う。
「条件反射みたいにあの夜を思い出す。気持ちいい風呂でさ、月を見ながらずっとお前のこと考えてた。ここまで来て何にもなしで帰れねえよなーって」
 あの夜――そう言われて思い浮かべるのは、半年ほど前に二人でした旅行だ。互いに特別な想いを抱きつつそれを打ち明け合えずにいた時間。露天風呂つきの離れに宿を取り、当麻は征士の誕生日を祝ってくれた。
「露天風呂のイメージが完全にあそこの風呂に固定されちまってさ、こう……ざわざわっと、身体中がお前を求めて騒ぎ出す」
 電車ん中でなんか大変なんだ、と嘘かまことか呟いて、当麻は悪戯っぽく口の端を上げた。
 やわらかな湯の感触が征士の中にも甦る。そう、自分も、まだ明るい空のもと、風呂の中で当麻との思い出をいくつも浮かべ続けていた。この湯のようにやわらかく心地好く彼を受け入れる存在でありたいと思っていた日々を、そしてそれを叶えられずに過ごした数年を、その後の二人きりの時間でどう変えればいいのか悩みながら、静かな空気にため息を吐いていた。
 思えば、征士の身体にも改めて熱が生まれた。
「――納得した?」
「…した」
 結局その夜から、二人は共寝をする関係になったのだ。
 笑いを深くし、当麻が両腕を征士の首に回す。
「だからもうつべこべ言わずにやることやろう」
 その言いぐさに吹き出して、征士は両腕で当麻を強く抱き込んだ。

掲載日:2009.09.22 / 6月26日 露天風呂の日

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