Pulse D-2

bath-time dream

 はぁ~…と、大きな感嘆の息を漏らし、いかにも幸せだという顔をして当麻が長い廊下を歩いてきた。
「やっぱ、お前んちの風呂って最高…」
「銭湯代わりにするなよ」
 こちらはまだ教室の最後の生徒を送り出したばかりの征士が、ところどころ墨汁で汚れた机を拭きながら顔を半分だけ当麻へと向ける。
「金払ったことないけどな」
「そうだな、たまには払ってもらおうか」
 言われて当麻はにやりとする。
「じゃ、身体で払っとこか」
 ふうん、と今度は征士が揶揄したそうに目を細めた。部屋の入り口に座り込んだ当麻に歩み寄る。
「ではひとまずここで私に払っておいてもらおう。家には私から還元しておく」
 その言いぐさに当麻は声を立てて笑った。浴衣の襟元に指を沿わせる征士にも、心地好く振動が伝わる。
「お前も早く風呂入ってこいよ。そしたら付き合ってやってもいいからさ。あ、でも、飯が先な」
 言う間にも首筋に落ちてくる唇に、話聞いてるかぁ? と当麻はまた笑う。そして、彼の胸をはだけさせたそうに這い上がってきた征士の左手を取り、あれっ、と小さく声を上げた。
「先生、珍しい。指に墨がついてますよ」
 顔を上げ、指先を一瞥して征士は答える。
「掃除の時にでもついたのだろう」
 乾いた墨をこすったような跡が薬指の先に残っていた。やれやれと溜め息を一つ吐いて征士は立ち上がる。
「仕方がない。伊達の湯にでも行くか」
 可笑しそうに肩を揺らす当麻が先に廊下に出る。それを追って、征士も書道教室として使っている部屋の障子を閉めた。
 並んで歩く廊下から、征士の家の前庭が見える。小さな庭園灯の明かりと昇り始めた半端な大きさの月の光とに、紅葉した庭木が淡く浮かんでいる。当麻にとっては数か月ぶりに目にする静かな庭だった。
「そういやさ。ほんとに今日オープンの銭湯があったんだって。うちの近く、新しいの出来たんだ」
「このご時世に銭湯がか?」
「そ。このご時世に」
 お互いに他人のことは言えない仕事をしてるだろうとは口にしない。代わりに、ところで今日は銭湯の日って知ってる? と軽く言ってから当麻は先を続ける。
「温泉引いてるらしくてさ。サウナに露天の岩風呂にアロマバスだろ、打たせ湯だろ、ボディマッサージにハイパワージェットに寝風呂に電気風呂。喫茶コーナーもあるから風呂上がりにビールも飲めるし当然軽く食事もできる。あ、床屋も入ってるらしい」
「床屋?」
 相変わらず記憶力だけはいいのだなと、征士は思いつつ立ち止まる。彼の自室の前まで来たのだ。寝巻きを取りに入る彼の背に当麻の声がのんびりと届く。
「んーと…ヘアカットコーナーだろ、ボディケアコーナーだろ、フェイシャルエステサロンだろ…って、そういうの、何て言うんだっけ?」
 スーパー銭湯だろうか、と考えはするが、はっきりわからないので答えずにおく。記憶力がいいのではなかったのかと内心首をひねるのは、今に始まったことではない。
「まぁ、とにかく楽しそうなチラシ配ってたんだけどさ、今日はこっち来ることになってたし、オープン初日に銭湯の日サービスがついて格安バカ混みみたいだったからパスしたんだ」
 だから今度行こうぜ、と部屋の中に声をかける。けれど、そうだなあ、と気のない返事が聞こえてきて、当麻はこころもち視線を下げた。
「一日中、ゆっくりとさ」
 かすかな声のトーンの変化に征士は気づかない。
「お背中お流しいたしますよ」
「その喋り方はやめろ」
 出てきた征士に気を取り直して軽い調子で言えば、呆れたように返された。
「背中なら今ここの風呂で流してくれてもいいのだぞ。身体で返すのだろう?」
「あれ、そんなんでいいのか?」
「それだけでは済まんがな」
 澄まして言うのに当麻が咽喉の奥で笑う。
「まぁ、それはそれでいいけどさ――じゃなくって、せっかく出来たんだからさ、試してみたいわけよ」
 当麻は話を戻す。
「汗も汚れも疲れも落として、すっきりリフレッシュしてさ。適当に飲んで飯も食って、あとは寝るだけって感じで俺のうちまで歩いて五分」
 結構ラッキーな環境だと思うんだけど、どう? と上目遣いになった当麻に、ふっと征士は表情をやわらげた。
「何?」
「誕生日だしな」
 今日は彼の誕生日で、その祝いをするからと彼を自分の家まで呼んだというのに。母たちの手料理と彼の好きな広い風呂と、三食昼寝つきの週末を約束しているというのに。その彼の話をついつい片方の耳だけで聞いていた自分を征士は反省する。
『我ながら鈍感で意地の悪いことをしてしまった』
 風呂場の入り口の戸を開ける。当麻が使った後の温かい湿気がゆるやかに漂っている。
 怪訝そうな顔のままついてきた当麻に、征士はゆっくりと向き合う。
「そうやってねだってくれるほうが助かる」
 考えなくてすむから楽だ、という意味ではない。彼の望みを叶えるのだという自信を持って、彼と行動を共にできるからだ。
「……じゃ、お前のおごりな」
「よろこんで」
 渋い表情になって目をそらす。そんな当麻の態度が征士の心をさらにあたためる。図星を指された時の癖だからだ。
 お背中もお流しいたしましょうと、そっくりそのまま言葉を返せば、当麻は諦めたように照れくさそうな笑みを見せた。
「アフターケアもお任せください」
「…それはお手やわらかに」
 笑ったまま答えた当麻の頬をさらりと右手で撫でる。このまま風呂に連れ込みたいと思う気持ちを必死に抑え、わずかにシャンプーの匂いをさせる青い髪に口づける。そこまでで、当麻がすっと身を引いた。
「早く出てこないと飯、なくなるからな」
 言葉を残して去っていく彼に、二十年前から変わらない愛しい想いが湧き上がる。
 どうか、二人で浴む湯に彼の心も身体も、あたたかくやわらかくなりますように。

掲載日:2008.10.10 / 10月10日 銭湯の日

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