Pulse D-2

カサ ノ ウチガワ

 ばたばたばたばたばたっ。
 そうとしか形容のしようのない音をたてて、しっとりと雨に濡れた薄い木製の看板が電柱の横で揺れていた。もとはポスターの貼られていた表面には、今はその残骸が僅かにこびりついているだけで、雨の上がるころにはそれもこすられ、風に煽られ、水にふやけさせられて消えているだろうと思われた。そんな道端に征士は一度だけちらりと目を向けたが、だからといって何が出来るわけでもなくそのまま歩み去った。
 雨は今、霧雨と呼ぶに相応しい静けさをもって降り続いていた。だがその静寂を乱す風が時折足早に吹き過ぎ、同時に細かい水滴を道ゆく者たちに容赦なく浴びせかける。
 加えて言うなら、朝は雪だったものが昼前にみぞれになり、やがて小粒の雨になってそれから霧雨へと変わったものだった。
 風が吹くたび、傘など役に立たん、と征士も思う。
 空模様がどう変わろうが、雨脚が強かろうが弱かろうが、この防ぎようのない風がある限り屋外にあるものは皆濡れるのだ。
「どうにかしろ」
 風をおとなしくさせろと、理不尽だとは思いつつも、頭に浮かんだ『天空の当麻』のにやけた顔に舌打ちした。
 学校から最寄りの駅までは十分強。日はとっくに沈み、ただでさえ暗い裏道は雨のためにさらにうらぶれて見える。そんな道をただ黙って一人で歩いていると不必要な憂鬱が湧いてきて、どこかに知った顔でもないかと前後に目を向けたりする。
「私らしくないな」
 けれどそんなに都合よく知り合いのある筈もなく、すぐにそう思って征士は首を振った。
 いつもは煩わしく感じる駅前商店街の明かりが、今日はやけに優しく見えた。


「ドジったなぁ…」
 頭上を見上げて当麻は呟いた。
 すっかり日の暮れた空は濃い灰色の雲に覆われ、そこからは途切れることなく冷たい雨が落ちてくる。小降りになったところを狙って駅を出た筈だったのに、気づけばそれはみぞれ混じりになっていて、傘を持たない当麻の髪を肩を乱暴に凍えさせていた。
 前方には緩い上り坂。人通りは殆どなく、街灯も少なく暗い。その光景だけでも陰鬱な気分になるというのに、冷えた体が疲れを訴え始め、更に足取りを重くさせる。そして強い向かい風。
 しかめ面でそれをやり過ごしてから、寒さに堪えかね半ばやけになって駆け出す。だがぬかるんだ道の走りにくさに、すぐにげんなりとして徒歩に戻した。
 すると、背後から近付く足音が聞こえた。何故今まで気づかなかったのかと思うほどそれは近く、少なからず当麻は驚く。この道をこの時間にこの雨の中走る人物。それは自分を見つけて追いつこうとする同居人か、暗がりで自分を刺そうとする危ない人か、それとも何がなんでもジョギングをしなければならないと思い込んでいる向こう見ずなスポーツマンか――
 ふざけた考えをめぐらせつつ振り向こうとしたその瞬間、ぐっと肩を掴まれ引き戻された。
「こらっ。やると思ったぞ」
 わあぁっ、と当麻はみっともなく大声を出す。振り返って見た夜道には、鞄と傘を手にした征士の怒りとも呆れともつかない表情が待っていた。
「…って、おどかすな!」
 通り魔じゃなくてよかった。
 激しい動悸をなだめつつ、当麻は頭の半分でそんなことを思う。ある意味通り魔より怖いけど、とは口が裂けても言えないことだ。
「どうしてお前はいつもいつもそうやって雨の中を平気で歩くのだ」
 差し掛けられた傘の下。やっぱり小言付きだよな、と内心当麻は苦笑する。
「違うって、電車ん中にカサ忘れたんだってー」
「馬鹿者が。途中で買うぐらいできただろうが」
 そう言いつつも、征士は手袋で当麻の髪についた水滴を払う。そうしてそれだけに留まらずハンカチを取り出して広げるのに、当麻はくすぐったい気がして揶揄するように笑った。
「お前さ、他の奴にもこんなことするか?」
「ほか?」
 聞き返すと、伸とか秀とか遼とか、と当麻は付け足す。
「遼にはするだろうな。伸と秀は…そもそもこんな真似はしないだろう」
「あー…そうかも」
 伸はもちろん、ああ見えて秀も実にしっかりしている。自分の体がどこまで耐えられるかをきちんと知っているから、それ以上の無茶はしない。例え濡れたとしても、
「ああオレ、タオル持ってっから」
 と言ってさっさと拭き始めるタイプだ。そういう部分は、意外にも、戦いを終えて一緒に暮らすようになってからそれぞれに気づいたことだった。
 そんな仲間たちの性格を考えて少しの間当麻は黙っていたが、髪を拭き終えた征士が当麻の肩を使って自分のハンカチを畳み始めると、その手を眺めながらふと思い立って口にした。
「あ、でも、何か良くない?」
「何がだ」
「ナチュラルに相合傘」
 軽く頭上を指差して、平和そうな笑顔を当麻が浮かべる。対する征士は目を合わせて黙ったまま、表情も無く数秒を過ごした。そして何事もなかったかのように、当麻のコートとその上に無造作に巻かれているマフラーとに、畳んだままのハンカチを滑らせた。
 あれ、却下かな?
 当麻が思い始めた頃、
「持て」
 と征士は傘を差し出した。それまで鞄と一緒に左手で持っていたものだ。
「ん」
 当麻が受け取る。その横で鞄を脇に挟み、濡れた大判のハンカチを両手で絞る。だがそうしても濡れていることには変わりがない。渋々といった様子でコートのポケットにしまうと、ようやく空いた手で征士はこぶしを握った。
「…ってぇ――」
 途端に当麻が頭を抱える。
「まったく……馬鹿者が」
 言うと同時に傘をひったくり、征士はすたすたと歩き出す。
「何だよ…」
「うるさい」
 また大粒のみぞれの中に放り出されそうになり、慌てて当麻も横に並んだ。
「いやまじ今の、痛いって…」
 最高級の頭脳が壊れたらどうしてくれるんだ。ぶつぶつと当麻がそれらしきことを呟く。
「これくらいで壊れるようでは大したものではないな」
 それに征士は冷たく言い放った。
 ああ言えばこう言う、とは征士がよく当麻に対してぼやくところだが、征士だって自分にとっては十分それに値すると当麻は思う。確かに彼は口数の多い方ではないし、どちらかといえば聞き役だということも認める。だが時折伸などに言われる通り、征士は当麻には殊更厳しく口うるさく、また、過保護だとも思えてしまうのだ。
「お前って分かんねー」
「分からなくて結構だ」
「ちぇー。ちっとは感謝してんのに」
 言われて征士はちらりと当麻に目を向けたが、それだけでそっぽ向いた彼に当麻の方では思い当たることがあったのか、ころりと表情を変えて言葉を続けた。
「うわー、お前いま、やーらしーこと考えただろ」
 征士は不機嫌そうに睨む。けれど意に介した様子もなく、当麻はにやけた表情を続ける。
 きっと征士は、互いの感情を煽るなと言いたかったのだろう。共に戦った仲間としてだけでなく、勿論ただの友人でもなく、もう少し踏み込んだ感情を抱く相手として認識していたから、本当のことを言えば征士も当麻も『相合傘』などでは納得できないのだ。
「即物的な奴だな」
「お前に言われたくはない」
 何の確認もせず、ただ当麻は自分の考えから出た言葉を口にする。征士もまた特に追求することなく、その言葉に対してだけやり返した。
「…ま、な」
 垂れた目尻を更に下げて、当麻がくしゃりと笑った。征士は小さく肩をすくめた。
 笑ったついでのように小さく当麻がくしゃみをする。それを横目に見て、征士は再び傘を差し出す。相手が受け取るのを待って彼のマフラーを外し、腕にかけてから自分のマフラーも外していく。それを当麻の襟元に掛けて、彼の腕をふさぐ傘を無言のまま受け取った。びしょ濡れのマフラーをしているな、ということらしい。
「…どうも」
 今度は一応の礼を言い、当麻はコートの内側にあたたかい布を巻いた。
 遠くから風がやってくる。その音を捉えて、征士が当麻を抱え込むよう腕を回す。前方に傾け気味に傘をかざすと、叩きつけるような衝撃と共に風と水とがぶつかってきた。
 だが次の瞬間、それはふっと消え失せる。彼らの周りに吹き寄せる風はなく、足元に落ちる雫も見えない。二人を包む空気は温かくその場に漂い、それを避けて過ぎていく風の流れが征士にも見えた。
「これくらいなら出来るらしい」
 征士の腕の中で言う当麻は、なるべく自然に明るく見えるよう気をつけながら笑う。
「でも一人じゃ無理だけど」
 自分の中にはもう『天空』の力は殆ど残っていないからと、言葉にはせずにそう語る。征士の中にある光の力を借りれば、少しだけ天空に戻ることもできるけれどと。それは彼らに悲しい記憶を呼び起こしたが、もうそれを振り返るのはやめようと、二人は沈黙をもってやり過ごした。
 やがて、風はまたおとなしくなる。落ちる粒も少し小さくなり、ただの雨に戻ったようだ。当麻が力を解き、征士も腕をといてゆっくり歩き出す。
「何か俺さ、いっつもお前のカサに入ってんのな」
 そうなのか? と征士が傍らを見る。そうそう、と当麻が笑って頷く。
「一年弱で、一、二、三…」
 その場面を思い出しながら当麻は指折り数える。
「…もういい、数えるな」
 呆れる征士は溜め息混じり。それは単に自分たちの通う学校がすぐ近くのため、お互いの行動範囲や移動時間が似ているだけだ。そう頭では割り切るのだが、心情としては物足りなさを感じた。
「他の奴呼んだら怒るか?」
 ふざけた調子で当麻が首を傾げる。ちらりと相手を見遣った目が、一瞬だけかち合って離れる。
「怒りはしないが――」
 どう感じるだろうと考えて、征士は静かに口を噤んだ。
 彼が思い巡らす間を、当麻は決して乱さない。むしろそれを楽しむかのように、時折問いかけては一緒に黙り込む。そして、返答しかねる征士を助けるよう、彼のほうから答えを差し出すのだ。
「真っ先にお前を呼ぶから。来いよ」
 風雨の音に負けない、静かだが強い当麻の声だった。
 目を向ければ、顔は前に向けたまま、俯き加減に当麻は表情を隠す。
「心しておこう」
 征士の言葉に、口元だけ薄く笑むのが見えた。
 並んで歩く傘の内側。遠くに淡くオレンジの光。窓に浮かぶ仲間たちの影。胸に抱くきよらな安らぎ。
 また雨が強くならないように願いながら、二人は黙って歩き続けた。

掲載日:2001.12.31

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