天に流れる願いの川へ
コンクリートの歩道に濃いグレイの染みができる。その原因を確かめようと空を見上げた当麻の頬に、待っていたかのようにぽつりと雫が当たった。
「何だ、やっぱり降るのかよ」
迷った挙げ句に置いてきた傘が悔やまれる。だが幸い、公園を突っ切ればすぐに当麻の家だ。大急ぎで道を渡り、広い公園の木々の下を抜けた。
「あぶねー…」
建物の入口に辿り着いた途端、雨が激しさを増す。厚い雲の向こうの天球に一瞬だけ思いを向けてから、当麻は肩の上の水を軽く手で払ってドアを開ける。階段は狭くて暗いけれど、足元の安定感は心地好い。こんなところでいいの? と母親は心配したものだが、多国籍の住人がお互いを尊重しあいながら暮らすこのアパートは思ったよりも居心地がよく、四年強の期間を当麻はこの建物の三階で過ごしたのだった。
薄暗い室内で、つけたラジオが時報を鳴らす。
七月七日、午後四時。
続いた女声の英語が少しうるさい。
タオルで髪を拭き、Tシャツを着替える。たったいま喜んで買ってきた新刊書が、なぜだか急に色褪せて見える。
代わりに鮮やかな色を浮かべたのは、数日前に届いた征士からの葉書だった。
『田舎の祭りにはまだ少し早いが』
そう書かれた紙面の裏には、仙台の七夕の様子を描いた明るい油彩画が載せられていた。
「七夕か…」
今年も雨だな、と外を見遣る。にわか雨のような感じだが、それが上がったからといって星空になるとは思いにくかった。また天の川は見えないのかと、普段はそれほど気にしないことを考えて手元の文面に目を戻す。
『こちらは雨続きだ』
七夕で雨続き――受け取ってから何度も目を通した文章に、不意に隠された意味が重なった。
『だから、逢えない』
織女も牽牛も雲の向こう。天の川にはきっと、霧が立ち込めている。
そして自分たちのあいだには広い海。気持ちの決まらないままに、靄の中に立ち尽くす。
「征士――」
胸が、痛い。
決めかねて迷うばかりで、彼を傷つけ続けているのではないのか。何度そう思っても踏み出せない。一年に一度すら会わずに過ごした。
『あまり晴れんな…』
そう言いながら夜空を見つめていた整った顔が脳裡を過ぎる。心を寄せ合って暮らした最後の夏の光景だった。
七夕の夜。さすがに笹を飾り付けることはしなかったが、気分だけでも少しロマンチックに語り合うには、静かな柳生邸は絶好の場所だった。晴れればすばらしい星空の見える家だったが、この日は曇る年が多かった。
「天の川を英語で『Milky Way』って言うだろ。どう思う?」
ベランダに並び立ち、当麻はふと尋ねた。
「どうと言われても…」
何を尋ねられているのかわからず、一度当麻へと向けた目をすぐに空へ戻して征士は考え込む。それから、
「イメージとしてはそれなりにうまいと思うが、私には『天の川』という言葉のほうがしっくりとくる」
と、当麻の予想通りの答えを返した。
「ミルク入りじゃだめか?」
「駄目とは言わんが――もっと透明な印象を持った表現のほうが合うような気がするのだ」
川、という言い方が良いのかもしれない。
そう付け足して、彼は当麻の反応を待った。
「うん。同感だな」
Milkyの濁りは川にはそぐわない。Galaxyではギラギラした感じがつきまとう。自分の感覚ではあれは、天の川、もしくは天河だ、と当麻は思ったのだ。
「なぁ。星が出てたら何を願った?」
「そうだな…」
ぱっと話題を変えても嫌な顔をしない。真面目なふりでふざけた答えを口にする。
「お前がもっと規律ある生活のできる人間になりますようにとでも祈っただろうな」
そうして嫌そうな当麻の顔を確認して笑ってから、
「お前がいれば――」
と静かに囁いた。
抱き寄せられて頬を寄せ、お互いの胸に染み込ませるように当麻も言葉を贈る。
「一緒にいるよ、俺は」
そう言えたのだ。あの時は、まだ。
絶望とも後悔とも取れる思いのままに、当麻の胸の痛みは消えることがない。征士を捨てるついでに日本も捨てて、想いも思い出もすべて消すつもりで来たこの街だったのに。
「何一つ、できやしない…」
葉書を置いて窓辺に立つ。雷を伴って、雨は降り続けた。
七月七日。日本の夜は、晴れたのだろうか?
乾きかけの道路に単車を走らせながら、当麻は見えてきた海のさらに向こうの空を思う。
十七時間の時差を追って、当麻の上にも夜が訪れる。
海岸沿いも確かに雨は降ったのだろうが、空は驚くほど晴れ渡っていた。郊外を抜け、人の気配から遠ざかるよう走り続けながら、心は過ぎた日の征士との思い出ばかりに向かっていく。
胸の中で、静かな声が和歌を綴る。
「幾とせか心かはらで七夕の逢夜いかなる契なるらん」
「色っぽいなぁ」
喉の奥で当麻は笑う。いかに致しましょう? と返すのに、征士もちらりと照れて笑った。
「政宗公の歌だ。少し前に見掛けてな。七夕の歌は何首かあったのだが、私たちならこれかと思って――だが、いかんな」
「何が?」
「自分の言葉で口説かなければ」
一瞬の沈黙の後、当麻は今度は声を上げて笑った。
「お前は口説きすぎ」
「そうか?」
驚いたように征士が目を向けてくる。自覚なしの口説き文句が多いんだよなと、口には出さないまま当麻は頷いてみせる。
「気をつけよう」
そして軽く考える素振りを見せてから真面目に言った征士の肩に、そっと顔を伏せて黙り込んだ。右の指先に征士の左手が触れて、いつも自分は彼の左側にいたのだと今さらながらに気づいたのだった。
『心かはらで』
変わらずにいたいと思っていた。半年先に全く逆のことを願うなど夢にも思わず、何度でもこうして並んで空を仰げるようにと望み続けていた。
なのに自分は、変えてくれと願ったのだ。征士には、自分のことなど忘れて他の幸せを当たり前に掴んで欲しかったのだ。できる筈だからと、悲しい彼の目を振り切って一人になった筈だった。
けれど――
ヘルメットを脱ぐと、海風が髪を乱して過ぎる。周囲に明かりは殆どなく、暗い海の上、胸が詰まりそうなほど見事に流れる星の川に、しばらく呆然と当麻は立ち尽くす。
「天の川…」
思わず漏れた呟き。
何年英語圏で暮らそうと、Milky Wayは馴染まない。風を受ける指先に、触れる手の無いのが不思議でならない。
「やっぱりさ……逢いたいよ…お前に――」
込み上げてくる想いは、あの夏と少しも変わらない。それを素直に喜べないのが悔しくて悲しくて仕方がない。
『卒業式はいつなのだ?』
送られてきた葉書の、静かな抑えた問いかけ。その向こうに征士の希うような表情が見えそうで、返事を書けないままに大学生活を終えた。その間、いつになく葉書が絶えたのは、答えを待っていたからかもしれない。
「待つなって言ってんのに…」
短い返事も当麻の帰りも、決して待つなと言ってきたのに、溜まるカードが想いの深さを当麻の中にも刻んでいく。落胆の色も帰国をせがむ言葉も決して征士は見せはしない。それでも、次のポストカードを送るのに、彼はどれだけの勇気を振り絞ったのだろう?
「ごめん…」
逢いたい、逢いたい…。ただ、征士に逢いたい。
溜め込んだ想いが堰を切る。視界の中の星が霞む。
七夕の夜。遠く一人を想う。
決して望まないと決めた筈の、短冊には書かないたった一つの願い。それを今、満天の星に当麻はひたすら願う。
『長く長く二人が同じ時間を過ごせるように』
後悔する時もあるだろう。傷つくこともあるだろう。けれど、それを恐れていつまでも立ち止まり続けてはいられない。誰に恨まれても、何を失っても、いま存在している自分たちの想いを捨てることなどできやしない。
「帰るよ。征士」
お前のもとへ。
ベガとアルタイルを夜空に認めて、繰り返し繰り返し、大切な名を当麻は呼び続けた。
掲載日:2005.07.08