時めぐる君がため
毎年、この時期の彼を見ると、
「食欲の秋なのだな」
と思う。
普段は手間の掛かることややり慣れないことなどには見向きもしないくせに、それが食べ物のこととなるとどうしてこうも行動が素早くなるのか。さらに、実りの秋なればこそ、食を求めるあらゆる行動が許されると思っているところがまた恐ろしい。
「今夜は栗ご飯な」
昼近くに起きてきて、人の顔を見るなり言うことがそれか。
「私は作らんぞ」
「けちなこと言うなよ」
別にけちで言っているわけではないと征士は返すが、その言葉すら待たずに新聞を手にすると、その下にあった折込広告の方を広げて当麻は床に座り込んだ。
「ほらほら、今日は栗が安いって」
すげえじゃん、俺、予知夢? と謎の言葉を吐きつつ広告を眺めている彼を、征士はもう相手にしない。並んだ食品の写真を前に当麻は目を輝かせている。
だがふと、征士の外出するらしい様子に気づいた。
「どっか行くのか?」
「ああ、秀と昼食だ」
「えっ」
当麻は声を上げてから、
「それ、俺も行くって」
と腰を上げた。
「つい今しがた電話があってな。外で待ち合わせた」
「何だよー、ここまで来てもらえばいいじゃん」
「秀に何か作ってもらおうと思っているのだろう?」
あ、ばれた? と当麻は笑ったが、征士は呆れたようにわざと大きな溜め息をつき、出掛ける準備をしようとする当麻を制止した。
「お前仕事は上がったのか?」
「ん、もちょっと。三十分もあれば上がるかなー。…寝ちゃったけど」
昼までに仕上げなければならない仕事なのだと、昨夜死にそうな顔をして部屋へ籠ったのだ。しかもその直前に、「これから頑張るんだからうまいもん食わせろ」とまでほざいて、これまた忙しい征士にあれこれ作らせたのも当麻である。
「栗ご飯が食べたいなら、今夜は外食だ」
「えーっ」
不服そうに声をあげて、当麻は思いきり眉根を寄せる。随分はっきりした反応だなと、征士は不思議そうに見遣った。気づいた当麻が答える。
「だってさあ、なんか俺、征士の味に慣れちゃったしー」
「何が『慣れちゃったしー』だ。知ったことか」
征士は妙な脱力感を感じたが、そんなのは今に始まったことではないので無視した。
「とにかく終わらせてから来い」
「えー…って、どこに行くんだ?」
「出る時に電話しろ。さぼるなよ」
店はどこかと聞くのに、征士ははっきりと答えない。当麻はますます不服そうだ。
「やるべきことはきちんとやれ。お前はいつでも詰めが甘い。ひどいしっぺ返しを喰わないうちに、周りへの責任を果たしておけ」
「…いつから俺のマネージャーになったんだよ」
征士が殊更厳しく言い放ち、当麻は軽く視線を逸らす。何でいきなりそういうこと言うかねと、ムッとしそうになるのを、当麻は冗談めかした呟きで曖昧にさせようとした。だがそれに、更に端的な言葉が返った。
「十四年前からだろう」
うっ、と言葉に詰まる当麻を置いて、征士は部屋を後にした。
中華には秀がうるさく和食には征士がうるさい。そこで二人は、少し駅から離れた気軽な洋食屋に足を運んだ。十分ほど外で待たされたが、それで昼時のピークは過ぎたのか、二人が入った後は一つ二つと空席が出来るようになっていった。オフィス街ではなく、商店街からも外れるので、もともとそれ程混まないのかもしれない。だが当麻お気に入りの店であることを征士は秀に述べていた。
秀はというと、当麻ももちろんついてくると思っていたので、一人で現れた征士に対し一瞬、意外そうな顔を見せた。そして事のいきさつを聞くと、
「ほんっとに成長しねぇなぁ」
と軽快に笑い飛ばす。
その秀には、もう子供が二人いて、日々めざましい成長ぶりを見せるその子たちや、更に人数の増えた大家族の生活、家業の柱の一本となって忙しく立ち働く彼自身に比べたら、自分たちのシンプルで一見して静かな暮らしは、それこそ代わり映えのしないものに見えるのではないかと征士も思ってみたりする。
どれがいい悪いではなく、個性の違いだなと感じるのだ。
「この間などは梨続きでまいったぞ」
食べ物の話が続いた中で、征士が同居人の行いを語る。
「なしぃ? リンゴと梨の?」
どういう連想なんだと思いながら征士は頷く。
「あーあ、どうせいろんな種類があるからって、全部試したんだろ」
「そうだ」
やっぱなー、と秀は笑う。
それは昔、秀も当麻と一緒になってやった梨の『食べ比べ』だった。品種によって微妙に出荷時期が異なるので、その期間中あれこれと買い付けては好きなように食べまくるのだ。ただ、当麻の場合、それを自分だけでやるのではなく、常にその相棒を求めるのが厄介なのだった。
「ま、それも愛なんじゃねえの」
秀は今度は大きくニヤリと笑う。
何をどう考えて秀がそう言うのか征士には分からない。だが、彼の目に、深く落ち着いた慈しみを確かに見、征士は緩く笑って肩をすくめた。
「あーほら、来た来た」
窓ガラスの向こう、足早に向かってくる当麻の姿が見えた。彼の方でも二人に気づき、軽く笑みを見せる。
「おっす、当麻。仕事終わったかー?」
「あーはいはい、うちの亭主が煩いもので」
入ってきた当麻は、問われるままに疲れたふりをして重く息をつく。亭主かよ…と秀が苦笑し、征士が横からじろりと睨む。それに今度は気づかないふりをして、当麻はでテーブルに視線を移した。
「なんだよー、もう食後のコーヒーかよ」
そしてやってきたウエイトレスに、
「オムライスッ、サラダ付きっ」
と間髪入れずに注文した。店名を聞いた時から、彼の中では既にメニューは決まっていたのだろうという感じだった。
「なぁ征士ー。栗ご飯が駄目なら茶碗蒸しってのはどうだ?」
まるでつい今しがたの会話の続きのように話し始めた当麻に、まだ言うかと、言われた征士は溜め息を吐く。
「すまないが当麻、今夜は私の方こそ徹夜だ。夕食を作っている暇はない」
「お前、いいのか、こんなとこで油売ってて」
それには秀が反応する。誘ったりして悪かったか、というのだ。だがそのことなら気にするなと征士は首を振った。
「資料が届くのを待っているところだ」
「あ、そ」
素直に納得する秀が、どうにも納得する様子のない当麻を見遣る。
「何だよ当麻、自分で作りゃあいいじゃねえか」
「俺ぇ? うーん…だってさ…めんどくさいじゃん」
途端に征士に殴られた。
「…てっ」
小さく声を上げる当麻と無言のまま睨みつける征士。その二人を同時に視野に収めて、数瞬の後、秀がさもおかしそうに高く声を上げて笑った。
「秀?」
「え、何だよ?」
驚く征士と当麻に答える言葉は無く、秀は多少声のトーンを落としながらも腹を抱えて笑い続ける。
そうして息を切らしながら漸く笑いを低くすると、大きく一つ息を吐いてからコーヒーを一口すすった。
「お前らもさぁ…何て言うか──」
秀は本当にどう言ったらいいものかと迷うように、苦笑めいた表情を浮かべる。澄まし顔のウェイトレスが、小さなサラダボウルを当麻の前に置いて去る。
「幸せそうで何よりだな」
さりげなくその器に視線を投げて、秀が静かに告げた。
二人はちらりと目を見合わせる。当麻がぱっと照れて目を逸らし、あたふたとサラダに取りかかる。隣で征士は楽しそうに肩を揺らし、何度か小さく頷いた。
二日降り続いた雨が止んだ後、空は綺麗に晴れて高く澄んでいた。その秋空の下を、秀と別れた征士と当麻は肩を並べて歩く。
「忙しいのは三日間だけだ。その次は休みを取ってある」
前を向いたまま、征士が言う。
「黙っていても休日にならなくなったのは、少し不便だがな」
聞いた当麻が喉の奥で笑う。
「だよなー」
毎年必ず祝日だった当麻の誕生日。十月十日が体育の日ではなくなったことは、その誕生日を祝おうとする征士には少しだけ不便だ。だが、それを邪魔させるつもりはないらしい。だから休みを取ったと、征士は言っているのだ。
「栗ご飯でも茶碗蒸しでも作ってやる。…そんなものでいいのか?」
横目で見遣る征士に、んー、と当麻は考えているような声を出す。
「さあ、どうかなー」
呆けるようにそう言って、ふっと征士に顔を向ける。
「当日のお楽しみ」
そして、ニッ、と笑った。
どうかこの自由奔放な恋人が無理難題を思いつきませんように。
そう願う一方で、まあいいか、とも思いながら、征士は全身で風を受けた。
掲載日:2002.10.10