Pulse D-2

晴天乱流

 ドアの閉まる音に気づいて、当麻は顔を上げた。ベッドの中で何となくごろごろとしているところだったが、何も言わずに征士が出掛けたのかと不思議に思い、僅かに胸をさすりながら起き上がる。
「あ、居たか」
 けれど征士は何事も無かったかのように、普通の顔して当麻の前を横切っていく。つられるように部屋を出た当麻も、彼の後についてリビングルームに入った。
 征士が、手にしていたダンボール箱を床に置く。それを見ながら、当麻が興味津々に箱を挟んだ向かい側にしゃがみ込む。すると、
「おすわり」
 と命令しておいて、征士はカッターを取りに棚まで歩く。フローリングの床に直接尻をつき、当麻はあぐらをかいて待っている。どこからの荷物だろうと宅配便の伝票を見ようとしたが、その為に顔を箱に近づけたところで征士が戻り、正座を言い渡した。
 伝票を剥がして、ガムテープをカッターで切る。テープをそのまま剥がした時に、ダンボールの表面まできたなく破けながら剥がれてくるのが征士は嫌いなのだ。どうせ最後には全部剥がすくせにと、当麻は一手間多い征士のやり方を面倒がるが、当麻が自分で自分の箱を開ける時には当然征士は口出しをしなかったので、当麻も相手の行動に文句をつけることはなかった。
「お前の喜びそうな荷物だな」
 ざっと表面を見ると、征士は一番上に載っていた封筒を手に、中身の探索を当麻に一任する。以前『福袋みたいでわくわくするだろ』と当麻が楽しそうに言ったことがあったので、それ以降、その手の作業は当麻に回すことにしていた。
 当麻がにっと笑って荷物に手をつける。
「おおおーっ、栗っ!!」
「あああーっ、梨っ!!」
「うるさいぞ」
 一々声をあげるな。
 征士の注意が終わらないうちに、もう一つ、
「柿っっ!!」
 と声が上がった。
 艶やかな茜色を手にして満面の笑みを浮かべる当麻には、さすがにもう征士も掛ける言葉がない。笑いを含んだ溜め息をつき、封筒から出した手紙を読み始めると、当麻ののんびりとした鼻歌が居間を満たした。
 昨日とは打って変わって快晴の、明るく暖かい午後だった。
 胸やけがひどくてと言っていたわりには、当麻はもうすっかり上機嫌で征士へ目を向けてくる。食べてもいいか? と聞きたいのだろうが、ここで下手に彼の不興を買ってはまずいと分かってもいるので、征士が手紙を読み終えるまでの間はおとなしく待っている。
「桃栗三年柿八年、か」
「全部合わせて十四年」
 なのに、目を箱へ戻した征士はそんなことを言ってすぐには当麻の方を見ようとしないので、当麻も言葉を続けておどけてみせた。
「いや、ほら、俺たちが初めて会ってからそれくらいかなって」
 早いなぁ、と感慨深げに漏らすが、溜め息の真意は手にした縦長の柿への期待感のようだ。その様子を見ながら、
「柚の大馬鹿十八年」
 と征士が添えた。
「う…それも遠くないな」
 僅かに顔をしかめた当麻に、征士は軽く笑みをつくった。
 ようやく食べる許可がおりると、当麻はそそくさとキッチンへ向かう。梨と柿の両方を食べやすく切る。送って来られたのが一度に食べきれる量ではなかったので、彼としては安心でもあるらしい。
「分かりやすい奴だ…」
 そんな当麻の楽しげな様子に、征士は肩をすくめてソファに寄った。当麻は向かいの席でさっさと食べ始めていた。
「にしても、何で梨? 伊達家でとれた…わけないよな?」
「柿は庭でとれたらしいが、いずれにしろ実家からではない。送ってくれたのは叔母だ」
「叔母さん?」
 当麻が目を上げ、征士が頷く。
「父の妹の。この間、私のいとこが来ただろう。あの時の礼だそうだ」
「ああ、だから栗なのか」
 当麻は一人で納得している。そしてそのまま柿をほおばるので、彼の口があくまで征士は黙って当麻を見つめた。
「食べ物は何が好きだって聞くからさ、お前がかぼちゃで俺が栗って言ったの」
 そしたら夕食にかぼちゃの煮付が出たと、当麻は今更ながらに愚痴る。
「季節的に栗は出てこないだろう…」
 その質問にその答えかと、征士は何かしっくりとこない感じを覚えたが、それで当人たちが納得したなら別に構わないかと思うことにした。そして、思い出して口元を歪める当麻に、僅かに首を傾げた。
「彼女、しっかり者の美人だったよなー。嫁さんにしたいぜ」
 どことなく口ぶりがおやじくさい。
「歳が違い過ぎるのではないか?」
 征士の言葉に、おんなじこと言うなよ、と当麻が笑う。彼女にもそう言われたらしい。
「本人にも言ったのか!?」
「そ。彼女はいるのかって話になったから」
 いつの間にそんな話をと征士は呆れる。十歳くらい違ったって何てこと無いと言い募る当麻の言葉を、お前では願い下げだろうとさらりと流すと、
「何だよ、自分は『柚の大馬鹿』ほども一緒にいるくせに」
 と、相手も鼻であしらってきた。
「まだそこまで行っていない」
 答える征士に、まだ、ね、と当麻が小さく笑った。
 征士のいとこが来たのは、彼女の夏休みの終わり頃だった。進学希望の大学を見学する為の上京で、受験勉強の息抜きをかねて五日ほど滞在した。
「彼女さ、良く見てったよ、この家の中と俺たちの生活」
 征士のいない間に結構話をしたんだと当麻は言う。その時期、征士は仕事が忙しく、逆に当麻は一仕事終えたばかりだったので、家にいる間や近所へ出掛ける時などはほとんど当麻が彼女の相手をしていた。
 彼女の宿泊には征士の書斎を提供した。二人の寝室の二つあるベッドのうち一つを書斎に入れ、代わりに本棚を少し寝室へ運ぶ。他には当麻の仕事部屋とリビング、小さめのダイニングキッチン、トイレと風呂。細長いベランダには、当麻が時々思い立って始めるミニ菜園と、征士が暇さえあれば手入れする盆栽。
 駅からさほど遠くない場所に建てられたマンションはまだ比較的新しく、征士の几帳面さが発揮されている分には、きれいに整頓された居心地の良い部屋になっていた。
『ドラマみたい…』
 と言った彼女に苦笑したのは征士、得意げに声を立てて笑ったのは当麻。
 そんな、僅かに知るいとこを征士が思い出している間にも、当麻はさくさくと梨を食べていく。だが、やがてその手が止まり、残った柿をぼんやりと見つめ始めたのに気づいて、征士はいぶかしげに彼の目を覗き込んだ。
「どうした?」
「んー…」
 答える代わりに手を伸ばす。フォークの先に柿を突き刺し、征士の鼻先に差し出す。緩慢な動作がやはり当麻の中の気がかりを見せつけるようだったが、本人が言うまで待つことにして、征士は柿へと歯を立てる。当麻は少し笑ってその様子を眺め、それから小さく舌打ちをして視線を落とした。
「叔母さん、礼以外に何か言ってきたか?」
「何か、とは?」
 尋ね返されてどう答えようかと当麻は口を噤む。それは、本当はずっと黙っていようと思っていたことだった。
 だけどもう駄目だ。一度言いかけたら全部言ってしまうしかない。征士は半端もごまかしも許さないし、言わなければ自分以上に気にして時を過ごすだろう。それは嬉しくない。
 そうして当麻が言いあぐねる間にも、征士は思い当たるふしに眉根を寄せる。
「また…何か言われたのか?」
「何かって?」
 真似するようにわざと軽く言って当麻は顔を上げる。そして、息を呑んだ。そこには、厳しい雰囲気を放つ、征士の硬い表情があった。
「お前に嫌な思いをさせるようなことを言ったのではないのか。私たちの関係にとやかく文句をつけてきたのではないのか。彼女を通して、親戚の意見とやらを押し付けてきたのではないのか」
 この時だけは、彼はとても怖い顔をする。
 自分たちの平和を守る為に。自分たちの想いを守る為に。何よりも、当麻を守る為に。
 今までにも何度かあったことだった。
 高校卒業後、征士は一度実家へ戻った。妖邪との戦いを終えても仲間たちとは離れ難く、わがままを言って皆で一緒に暮らしたが、大学への通学には実家の方が都合がよかったし、それまで彼の希望をのんでくれていた家族へ少しでも感謝の気持ちを示したいという意向もあった。
 だが結局、彼は家族のもとを離れた。大学を終えた征士は、東京での仕事と当麻との生活を選んだのだ。
 地元での就職を蹴ってまで実家を出た征士。彼に家を継がせるべく待っている祖父母、両親、姉妹。時に見合い話まで持ってくる親類を宥めすかして、彼は必死に独立を貫く。
 そんな周囲からのプレッシャーがあるのはいつでも征士の方だ。親子三人がそれぞれ自由に暮らしている羽柴の家とは違い、格式を重んじる伊達家は、跡取りである征士を出来るだけ早く本家へと据えたかったのだ。
 だが、征士は帰らない。
 その裏にあるものに、最初に気づいたのは姉の弥生だった。
『縛られたくないと思うのは私も同じ。そして、家や家族を大切に思う気持ちも同じでしょう。ただあなたには、もう一つ大切なものがあるだけ。大切に思う人がきちんといるだけ』
 二人の元を訪れ、弟に言った静かな弥生の声を、当麻は征士の横でうつむいて聞いた。どんな顔をすればいいのか、彼女が去っても分からなかった。
「そうじゃない。嫌な思いなんかしてない。彼女自身が何かを言いに来たわけじゃないんだ」
 叔母さんがって言ったのは単なる俺の余計な勘繰り。
 当麻は緩く首を振って答えた。それでも征士が悲しげに見つめるので、当麻の方は少し困って言葉を探す。
「彼女はいるのかって聞かれてな」
 征士のいとことの話に戻る。
「まあ、仕方ないからいないって答えるだろ」
「…仕方ないは余計だ」
 征士が憮然として言う。当麻は小さく笑ってから続ける。
「じゃあ好きな人ならいるのか、って言うから、俺にはいるけど征士はどうかなあ…って言ったんだ」
 ばつが悪そうに僅かに目を伏せる。征士は静かに待っている。
「そしたら彼女、何て言ったと思う?」
 さあ、と首を傾げて征士が見遣る。当麻は目を上げぬまま口にした。
『そんなこと言ったら、征士さん、悲しむんじゃありませんか?』
 どう反応すればいいのか。征士は迷って言葉を失う。
「全部分かって来てたんだよ」
『ちゃんと弥生さんに聞いてきました。変な波風立てないようにって、念も押されました』
 そう言って彼女は笑ったのだという。
「お前の家族の前じゃさ、俺、あんまり普通にお前と居られないし、なんか…どうしても変に緊張するし」
 だから、本当の二人の姿を見る為に、伊達家との関わりの薄い、当麻とは面識もない彼女がやってきたのだ。
『本当は、半分は伊達のおばさまに頼まれて来たの。弥生さんや征士さんが嘘つくとは思えないけど、もしかしたらもっと悪い理由を隠してるのかもしれない。もう無理に本家を継がせるようなことはしないから、もし羽柴さんとの関係が嘘ならそう言って欲しいって。機会があったら二人にそう伝えて欲しいって』
 だが結局彼女は、誰にも嘘も隠しごともないのだと判断した。
『あとの半分は私とお母さんの希望。私は学校を見に来たかったし、少しは羽を伸ばしたかったし、お母さんは征士さんに彼女がいないようなら私が彼女になればいい、なんて言ってるし。何言ってるんだかねー。そんなのなれる訳ないじゃないねぇ』
 同意を求められて当麻は苦笑したが、彼女は楽しそうに話を続けた。全て打ち明けることができてほっとしたのかもしれなかった。
『征士さんかっこいいし大好きだなーとも思うけど、ごくたまに会う憧れのお兄さんだったから、今さら恋人とか旦那さんとかって何か違うと思う。私はもっと歳の近い彼氏の方が気楽だし』
 それに羽柴さんがいるしね。
 多少なりとも征士と血の繋がりのある人に、そう言ってもらえるのは嬉しかった。ほんの少しだが救われた気がした。
 弥生が本家を継ぐと言い出した時、最後まで反対したのは祖父だった。自分の子として男子をもうけることの出来なかった彼は、その分、孫の代に征士の生まれたことを心底喜んだという。その征士が本家に戻らないというのだから、彼が怒るのも無理はない。
 家を継ぐという考え自体、薄れている時代なのだ。弥生は勿論、彼女の両親もそう言ってみるが、そんな言い分は祖父には通じない。常に大切にし、誇りを持って護ってきた家系なのだ。そして、その意志を継がせようと育ててきた征士なのだ。
 どうしても離れられない人がいるのだと、征士は自分で祖父に言った。その人とは、今の日本では婚姻関係を持つことはできない。子供ができることもない。それでも、自分にはその人が必要なのだ。
 祖父の怒りも困惑も手に取るように分かった。孫の幸せと自分の苦労と、伊達家の将来と世間体と、きっと他にも幾つかの事柄を秤にかけただろう。最後に、彼は悲しそうに征士を見て言った。
『その相手とやらを連れて来なさい』
 会って、祖父はどうしたかったのだろうと、未だに征士は時折考える。
 単に別れさせたかっただけなのか、それとも相手の人となりを見極めたかったのか、説得の手段を探していたのか、妥協点を探ろうとしたのか。もしかしたら本当は、彼もとっくに諦めていたのかもしれない。
 自分たちと同じくらい悩み、苦しんだのだろうと今なら思う。そうしながらも万が一の願いを込めて、彼は二人に頭を下げたのだ。
 別れてくれ。
 祖父は、確かにそう言った。
 三人きりの剣道場に、低い声が重く響いたのを覚えている。彼がそんなことをするとは思いもしなかった征士は、ひどく衝撃を受けた。そしてそれが自分のせいであることに、絶望感にも似た悔しさと、虚脱感へと繋がる悲しみを感じて息を呑む。ただ祖父が、征士だけに命令するのでも当麻だけに言い聞かせるのでもなく、二人に平等に向き合ってくれたのは嬉しかった。
『申し訳ありません。それは出来ません』
『…すみません、俺、別れません』
 短い沈黙の後にそれぞれ言うと、ひどく罵倒された。当然のことだと黙って聞き、その後の半日をずっと耐えて過ごした。
 そうして寝室に入った途端、
『もう…限界……』
 と唇を噛み締め、当麻は堰を切ったように泣き出したのだ。
 ごめん、征士、ごめん、俺で。
 そう言ってむせび泣いた当麻の声を、征士は決して忘れない。あの時の怒りが、不甲斐ない思いが、征士の中から消えることはない。
 抱き締めて眠った夜、哀しい声を隠すように雨は降り続いていた。
 そうだ。あの日は雨が降っていたのだ。
『雨が降ると寂しくなる』
 寒い雨の昨日、当麻が言ったのはこのことだったのだろうかと思い至る。
「父や姉は認めてくれているが、祖父にそれは求めようもなかったし、母の気持ちとしても諦めの方が強いだろう。だが、諦めるのと認めるのとは違う。私は、私の家族に、お前自身と私たちの関係とを認めてもらいたいと、今でもそう思っている」
 静かな中に強い思いを込めて征士は言う。小さく頷く当麻にも、その気持ちはよく分かった。驚き呆れながらも心から祝福してくれた両親の姿が、当麻の中に一瞬、浮かんで消えた。
「別に隠さなくてもよかったんだけど、わざわざお前に言うのも告げ口みたいで嫌だったんだ」
 話そうとしたらまた泣いちまいそうな気がしたし。
 そう言いながら、やはり涙が浮かびそうになるのを感じた。
 まだ高校生だった頃、征士の家を訪ねたことがあった。古くて広い日本家屋と風の渡る夏の庭。人の出入りの多い門、竹刀の音の響く道場。馴れ合うのではなく仲のいい家族と、当たり前のように全員揃ってとる食事。
 羨ましいと、多分、思ったのだ。
 仲間たちとの暮らしの中で感じるのとはまた違う穏やかさがそこにはあり、自分たちに向けるのとは別種の信頼と愛情とを征士の中に見た。
 なのに、あの日。
 その征士が、伊達の家に、そして自分の祖父に対し怒りの感情を持ったのを感じて、当麻は胸が詰まるのを意識した。同時に、彼以上に憎んだり恨んだりしている自分に気づき心底嫌気がさした。こんな自分が相手では、親戚一同こぞって反対してもおかしくないだろう。そんなことさえ思った。
 でも譲れない。
 どんなに罵倒されても懇願されても、征士とは別れない。そう固く決めて、伊達の本家へ赴いたのだ。
 言われてすんなり出来ることなら、自分たちでとっくにどうにかしている。もう既に、身を切る思いで互いへの気持ちを断ちきろうとしたことがあって、だけどそれは不可能で、だからこうして来てるんだ。
 ごめん、祖父さん。ごめん、征士。
 怒りと悲しみの声を聞きながら、心の中で何度もそう言った。その気持ちは本当。けれど、堪え切れなくなって泣いた時、抱き締めてくれた腕を必要としていたことも本当。
 だから余計に思う。ごめん、征士、と。
 謝ればきっと征士は怒るから、自分には何も言えない。それでもその祖父の通夜に、一人きり、歯を食い縛り亡骸に伏して声なく泣いた征士を、当麻は知っている。生まれた時から一身に受けてきた期待と、厳しい躾と教育の中に感じ続けてきた愛情。それらを全て裏切って、何一つ気にせず生きていけるほど薄情でも傲慢でもないのだ。
 涙を消して、目を上げる。彼の髪を梳く征士の指を、当麻は静かに受け止める。最初に好きだと言った時と少しも変わらぬ優しい触れ方。
 何かの拍子にこんな風に、これからもきっと悲しい思いを抱いたりすることがあるだろう。でもそれくらい、越えてみせる。それは自分で決めたことで、同時に、征士も共に選んでくれた道だ。
「いつか、さ。分かってくれるって――お前の家族だもん」
 希望的観測でもいい。悲しんで悔んで恨んで暮らすより、ずっといい。
 吹っ切って笑う当麻に、征士は小さく口付けて離れる。
「今夜は栗ご飯」
 当麻は言って、皿に残った柿を口に放り込んだ。

掲載日:2002.06.16

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