冬を歩く
大学時代の友人から、突然電話がかかってきた。都内に来ているので会えないか、と言われ、征士は夕方の新宿へと出かけていく。仕事を仕上げたばかりの当麻はまだ眠っているらしい。目を覚ました時のために、リビングに小さなメモを残した。
数年振りの友人は、入籍したばかりだという夫人を征士に紹介し、僅かに照れ臭そうに耳元を掻いた。十年前にはよく目にしていた活発そうな笑顔が思い返されて、懐かしさと共に征士は祝福の言葉を贈る。冷たい冬の風も、並ぶ二人の体温は奪えないようだった。
もう一人の友人とも合流し、小さな家庭料理の店でゆっくりとした時間を過ごす。時期的には忘年会のシーズンで、もっと騒がしい日もあると店員は話していたが、この日は休日のためか会社関係の飲み会は行なわれていないようだった。二人、三人、と静かに酒を酌み交わす姿が見えているだけだ。
「伊達は付き合い悪いからな」
同じ都内に住む友人は、そう言って征士に視線を流す。
「仕事が一番、当麻が二番、三番家族で四番盆栽。俺の誘いはノーサンキュー」
「すまん、そういうつもりはないのだが」
まじめに頭を下げた征士に、友人は「冗談、冗談」と笑って手を振る。その隣から、夫人連れの彼が興味深そうに声を掛けた。
「とうま? 何だ、誰か相手がいるのか?」
「うーん、相手って言うか……まぁ、相手だな」
意味の分からない答えを無視して、征士へと目を向け説明を求める。苦笑と共に征士は告げる。
「私の同居人だ。お互いに忙しくて、何日も顔を合わせないこともある。だからそれ以外の時には、なるべくあいつのために時間を割くようにしているのだ」
「それだけじゃないくせに」
征士は向かいの席にちらりと視線を投げるが、おもしろそうに小さく笑っただけで小鉢へと意識を向けた友人には、それ以上何かを言わせようとする気配はなかった。
「今日は?」
「徹夜明けで眠っている。起きたら連絡するように書き置きをしてきたが」
当麻を知らない友人が、まだ色々と聞きたそうに征士を見ている。こういうやり取りはいつまでたっても慣れないと思いながら、征士は猪口を口に運ぶ。そこへふと言葉を掛けたのは、今まで沈黙していた夫人だった。
「今週末はお休みなんですか?」
征士のスケジュールを尋ねる声に、
「その予定です」
と静かに答えると、
「じゃあ、クリスマスは一緒に過ごせるんですね」
と続けて、彼女はにっこりと笑ってみせた。
そうか、クリスマスか、と、征士は改めて気づく。街の賑やかさに毎年感心はするものの、仕事場でもらったケーキを持ち帰るくらいしかクリスマスらしいことなどないのが常だ。それでも、一緒に、と言われると、それだけで貴重なことのように思えて気持ちが和らいだ。
「そうですね」
微笑んで頷き、僅かに口に酒を含んだ。
鍋を頼もうかと話しているところで、携帯電話の着信音が聞こえた。当麻からのメールだ。
「起きたらしい」
「呼べば? ここに」
途端に斜め前から提案され、征士は迷って見つめ返す。
「いいんじゃないか。ここ、飯うまいし」
真正面の席からも軽い賛成の意見が届く。征士は眉根を寄せて席を立ち、一旦、店の外へと出た。
「……ということなのだが、来るか?」
『あ、行く行く。腹へった…』
そうだろうと頷きながら、待ち合わせ場所を指示する。そうして店内の友人たちに、
「迎えに行ってくる。鍋は少し待っていてくれ」
と言い残すと、ゆっくりと駅方面へ歩き出した。
ビル風なのか北風なのか、相変わらずの強風に目を細める。だがその先に見える駅周辺の明かりは、きらびやかで暖かそうなイメージを与えている。少し遠回りをしてイルミネーションを眺め、同時に、ここでも戦った、このビルも壊したな、などと、今はほとんど記憶の底に沈んでいる妖邪との戦いのあとを辿る。
この街にどれだけ人が溢れても、決して正確には知ることのない戦い。辛く苦しかった戦い。先の見えなかった戦い。けれど今は、あの時間に感謝できると思った。
東口から西口方面へと抜け、当麻が現れる筈の地下鉄出口へと立つ。吹きさらしの路上に佇む征士を、通行人が時折もの言いたげに眺めていく。気にしない征士は空を見上げ、曇り空に向かって白い息を吐く。雪は降らないのだろうかと、ひっそり胸の内で呟いた。
きっかり五分経過。当麻が地上に顔を出す。
「おまたせ」
よく眠ったせいだろうか、すっきりとした顔をして、当麻は機嫌がよさそうだ。少し伸びた前髪を軽くつまんでみせてから、征士は無言のまま先に立って歩き出す。
地上を最短コースで突っ切り、来る時の半分の時間で店へ辿り着く。二人が姿を見せると、
「うわっ。意外だけど、似合いすぎ!」
と、夫妻の声が揃って響いた。
最初に考えていたよりも、店にいる時間は長くなっていた。乗り継ぎの電車の時間を考え、五人は店を後にする。次に会うのはいつになるのか、そんな約束などはひと言も口にせずに、楽しいクリスマスとよい新年を、と言い合って駅で別れる。
「クリスマスか…」
ホームで呟いた当麻に目を向けるが、彼は特に表情を変えることもないまま、
「威張ってケーキを食べられるな」
と言ったきりだった。
こういう時は何か別のことを考えているのだ。征士はそう思い、意見をはさむことなく、入ってきた電車へと乗り込んだ。
時間に比例せず酒量は少なく、二人はしらふに近い状態だ。目的の駅までもすぐなので、出口付近に並び立つ。やがて地上へ出た電車の窓ガラスに、新宿の明かりと互いの姿が浮かぶ。
「新宿…」
また、当麻は呟く。
何を言いたいのだろうかとガラスの中で視線を向けると、当麻は目を合わせてうっすらと笑い、それだけでまた顔をそむける。
『まだタイミングが悪いのだろうか』
征士は半歩前に出て当麻との距離を縮める。気づいた当麻が顔を伏せて含み笑いを見せ、肩の触れ合う位置まで身体を引いた。
同じ駅で降りる人はまばらで、歩き始めるとすぐに二人きりになる。駅前の通りは決して細くはないが、祝日の夜中のためか走る車もなく静まり返っている。
「おっ、風物詩」
言いながら当麻が顎で指し示す。その先を見て、征士はふっと口許に笑みを浮かべた。
住宅街へと入る手前の角の、そこだけ明るい二十四時間営業。そのコンビニエンスストアの屋根の下には、横長の会議机が出されていた。明日になればきっと、この机の上に箱詰めのクリスマスケーキが並べられるのだろう。
「こういうものも風物詩と言うのか?」
「いいだろ、言ったって」
軽くいなす当麻は、吹き抜けた風に前髪を掻き上げた。その手を、すっと征士の左手が掴む。澄まして前を向く征士に、くしゃりと当麻が笑う。
「大の男がお手て繋いで…」
言葉の割には楽しそうに、当麻は繋ぐ手の力を強める。
『この日に手を繋ぐのは何年振りだろう?』
考える二人の足下に、雪の感触が甦る。ギュッ。遠い日の記憶の中、靴の下で雪が鳴る。
いつもと違うコートを着てきたから、ポケットに手袋が入ってなかった。そう言った当麻に、征士は自分の手袋の左手用だけを渡し、互いの素手同士を繋いで自分のコートのポケットに突っ込んだのだ。征士がそんなことをするとは思わなくて、当麻は驚きと可笑しさと恥ずかしさと嬉しさとがないまぜになり、ただ笑って身体を寄せた。
柳生邸までの緩い坂道。珍しく積もった雪は、通る者の少ない路上で白く清潔そうに輝いていた。
ギュッ。
今、足元に雪はなかったが、あの白さも柔らかさも、そして胸を満たした想いもすべて、欠けることなく浮かんでくるのが嬉しかった。
「なぁ」
「何だ?」
「たまにはクリスマスプレゼントなんてもの、用意してみないか?」
「明日までにか?」
「そう」
征士は間を取り考える。
「随分と急だな」
「俺、暇だから」
またこいつは自分の都合だけで物を言う…。
こんな言葉は今さら言っても始まらないのでさっさと飲み込み、征士は代わりの言葉を口にする。
「そうだな。努力はしよう」
そりゃどうも、と喉の奥で笑う当麻を軽く睨む。当麻はごまかすように肩を寄せたが、そうしてから繋いだままの手を挙げ、征士の腕時計を覗き込んだ。
満足そうに細められた目に、征士も同じ時計を見遣る。すぐに目を上げ、二人はそっと囁いた。
「メリークリスマス」
時計は十二時を指していた。
声を寄せ合うように口づける。
微かな光を降らせるおぼろ月だけが、二人をやさしく見おろしていた。
掲載日:2005.01.06