Pulse D-2

想いとともに

「悪ぃ…やっちまった…」
 当麻が死にそうな声で言いながら、現われた征士を振り返った。静かな休日の午後に、できることならば聞きたくないと思っていた破壊音が響いた直後だった。
 自室からベランダまで歩く間に、征士は頭の中で「割れたな」と呟く。そうして振り向いた当麻から彼の足元へと目を向け、さすがに一瞬、顔をこわばらせた。
 無惨に散った土と葉。割れた器の深い青。
 それは、征士の最も大切にしている五葉松の盆栽だった。
「…盥(たらい)を取ってくれ」
 自分自身を落ち着かせるよう一度唾を飲み下し、征士は低く声にする。
 思い切り怒鳴られるものと思っていた当麻は、予想を裏切られて余計にいたたまれない気持ちになったが、それでも素直にベランダの隅に置いてある小型の物置から木製の盥を出してくる。稀に盆栽の元気がなくなった場合に、水を張り、鉢全体を浸けるために使うものだ。
 受け取った征士はその中に、倒れた松を拾い上げて入れていく。
「あの…んとに、ごめん」
 所在なげに傍らに立ち、当麻は征士の手を見つめていた。怖くて、顔を見ることはできなかった。
「大丈夫だ。根に損傷はない」
「いや、でも、枝も鉢もこんな――」
 言い募れば自然と顔が征士のほうを向く。それを知っているかのように征士はちらりと視線を合わせ、当麻の言葉を封じた。
「品評会に出すわけではないのだ。多少樹形が崩れたとしても、そんなことを気にする必要はない」
 そして、新聞紙を、と告げる。当麻は急ぎ足でリビングへ入り、三日前の新聞を持って戻った。
 征士が紙を広げ、割れた盆器のかけらを乗せていく。そのまま割れ物を包もうとする手から、当麻が新聞を奪って作業を引き継いだ。
「私も悪かった。いつもと違う場所に置いておいたからな。すまん」
「いや。ちゃんと見て、ここにあるって分かってたくせに引っ掛けて落としたのは俺だ。征士は悪くない」
 征士はそれきり口を噤み、当麻もまた、強く唇を引き結んだ。
 樹高六十センチほどの松は、安定感なく盥に移されて不服そうに見えた。土と共に割れて散らばった苔を、丁寧に指先で征士は寄せていく。
 やがて整え終えて水を与えると、彼は出来を確認するかのように眺めながら、部屋への入口に腰を下ろした。新聞を手にしたまま、当麻も並んで座り込む。
「何故私がこの一鉢を殊更大切にしてきたか分かるか?」
「そりゃ…一番古くて立派な奴だからだろ?」
 一番大事なの落として悪かったな、と呟く。
 それには静かに首を振り、征士は口許に笑みを見せた。
「確かに、今ある中では最も古くから手がけてきたものだがな。別に、古いから、立派だからという理由で、細かく世話をしてきたわけではない」
 それじゃあこうだろうかああだろうかと、口に出さないまま当麻があれこれ理由を考えていることは、側の征士には手に取るように分かる。けれど、当麻がどれかに決めて口にするより先に、彼は答えを告げた。
「これは、唯一、辛い時期を生き延びた木なのだ」
 どういう意味かと当麻は首を傾げる。今度は、征士が口を開くまでには少しの間があいた。
「お前と別れようとしていた頃、私の実家には数十の盆栽があった。――祖父や父のものも含めてだが」
 目を当麻へと移しながら、征士はゆっくりと話す。
 何を言われるのかと、少しの不安と後ろめたさを感じたのだろう。当麻は一瞬、息を呑んで征士を見つめたが、続いた言葉に、
「すげえな」
 と小さく笑って目を細めた。征士も苦笑交じりに肩を竦める。
「ところが、その中で私の鉢ばかりが枯れていくのだ」
 それまでと全く同じに世話をしているつもりなのに、何故日に日に勢いを失っていくのか。不思議で、情けなく感じていた日々を思い出す。
 一般に、松柏(しょうはく)盆栽は扱いが楽だと言われる。松は病気や害虫に強く、日常の世話としてはできる限り規則的に等量の水を与えることを求められるのみだ。それでいて樹は常に深い緑を湛え、硬い木肌と堅実に伸び行く幹枝とが味わいある姿を創り出す。
 祖父の影響で始めた為、特に何を考えるでもなく征士も彼と同じ松を育てた。中でも、しっかりと根を張り力強く幹を生長させる黒松が好きで、なるべく針金を使わずに樹の望む自然な形を保つよう心掛けていた。
 だが、深く愛していた樹ほど、早い時期に枯れ始めた。
「ある日、祖父に言われた。『お前の身代わりになる盆栽が可哀想だ』と」
「身代わり?」
 征士は深く頷く。
「私の悩みが分かるのだと。私が心の平静さを欠き、心身の平衡を保てずにいることが、樹々に負の影響を与えているのだと」
 そういう話は聞いたことがあるだろうと、征士は当麻に同意を求める。真実はどうなのか分からないが、確かに似たような話はいくらでも見聞きしたことがあったので、当麻は軽く頷いて応えた。
 その様子を確認してから、征士は低く続きを告げた。
「そして尋ねられた。それほど私を悩ませていることとは何なのか、と」
 祖父には珍しいことだった。彼は、そんなふうに気遣う言葉をもって他人と接する人ではなかった。常に、態度と行動とで手本を示し続け、導いていく人物だったのだ。
 その彼に言葉を用いさせるほど、自分の憔悴は甚だしかったのだろう、と征士は苦笑する。
「何も言えなかった。誰にも話せなかった」
 もう十年以上も前のことだ。時が過ぎたから話せることなのだろうと、二人はそっと思ってみる。
「代わりに、お前にもう一度会えるまで私と共に再会を願って欲しいと、私はこの松に頼んだのだ」
 友人としてでもいい、ほんの一目だけでもいい。せめて会うことが適うまで、枯れずに願い続けて欲しいと。
 その頃にはもう幾鉢も枯れさせてしまっていた。残った盆栽も皆元気がなかったが、その中で、この五葉松だけが何故か青々とした姿を見せていた。
「そういう意味では、私以上に我が強いのかもしれんな」
 笑って言って、征士は盥の中の松へと目を移した。
 当麻は、乾いた土が薄くついたままの、征士の指先を見つめる。それは、きれい好きで几帳面な彼には少しもそぐわない筈なのに、骨張った長い指に乗った細かな土はやけに自然に見え、尖った葉を優しく撫でる仕種とともに、当麻には誇らしいほど好ましく思えた。
「当麻と暮らすようになってから、こいつは益々元気だ」
「お前さ…」
 声に、征士は顔を上げる。苦笑とも、笑い出したいのを堪えているところとも取れる顔の当麻がいた。
「…今さら、松をダシに口説くなよな」
 言葉の後に、ニヤリ、と当麻は笑う。それを見て、征士も負けじと澄まし顔で言った。
 いくらでも何度でも、気が向いた時にはいつだってお前を口説くぞ、私は。
 聞いた当麻は可笑しそうに――そして満足そうに――目を細める。そうして手を伸ばすと、
「そりゃ、どうも」
 と、征士の髪をくしゃくしゃと掻き回した。金の髪に光を弾かせながら、征士も楽しそうに笑った。
「いずれにしろ植え替えの時期だ。鉢を買いに行くが、緒に行くか?」
「おう」
 即答して、征士の髪を整える。
 穏やかな空気を纏い立ち上がる二人を、木々の香を乗せた風がやさしく吹き抜けていった。

掲載日:2005.06.14

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