Pulse D-2

空の真白に

 目覚まし時計よりも早く目覚めた。
 少し寒いな、と思うと同時に、もう明るくなっているらしい外の様子に意識が向かう。
『静かだ』
 日曜だということを差し引いても静か過ぎるように思えて、征士はそっと瞼を上げるとカーテンの隙間から窓外を窺った。
『そういうことか』
 一目見て納得する。白い空から、大粒の雪が降りてきていた。
 ベッドを出て窓際に立つ。見下ろす街は、今年初めての積雪にしんと静まり返っている。このぶんでは交通機関は麻痺だなと、首都の脆弱なシステムを少しだけ思いやりながら、一方で征士は、頭の片隅に懐かしい風景を思い描いていた。


「わあぁぁぁーっ!」
 朝一番に響き渡ったのは、遼の驚きの叫びだった。
 朝から何だ? と聞き耳を立てた直後、征士も同じ声を上げそうになるのを必死に押さえ込む。時計の表示に我が目を疑う。始業時刻が迫っていた。
「征士っ、征士、起きてる?」
 ノックと共に伸の焦りを含んだ硬い声が征士を呼んだ。
「たった今、起きた。すまん、完全に寝過ごした」
 答えながら扉を開ける。伸もまだパジャマ姿だ。
「参ったね、僕もだよ。それに――」
 短く言葉を切って、伸は廊下の端の窓へと目を向けた。征士もつられるようにそちらを見遣り、目にした景色に二、三度瞬く。
「ナスティの車、たぶん埋まってるね」
「そうだな」
 窓から見える背の高い木々は、雪をかぶって重そうにたわんでいる。
 とにかく外の状態をきちんと見てから学校に連絡を、と話をまとめて着替えにかかろうとしたところで、階下からナスティの悲鳴が聞こえてきた。
「ナスティ、どうした?」
「ひどーい! 今日は降っても雨だって言ってたのにー」
 ベランダから声を掛けると、半泣きになりながら彼女は顔を上げてくる。なるほど、庭に停められた彼女の愛車は見事に雪に埋もれていた。やはり車庫は作ったほうがよいのではないかと、征士はちらりと思う。
「すぐに行く。雪かきの道具があるなら出しておいてもらえるか」
 なぜか曖昧に頷くナスティを確認してから、動きやすくやや薄着の格好に着替えて当麻のベッドへと近づいた。
「当麻、起きろ。雪だ」
「んー…夜中から降ってたぞ…」
 答えながら当麻は布団の中にもぐっていく。
「知っていたのなら朝のことも少しは考えろ。ほら、寝るな。お前も雪かきを手伝え」
 だが、掛け布団を剥がそうとすると、当麻はむきになって布団にしがみつく。予想以上のその強情さには征士も呆れて、こんなことで時間を潰してはいられないとばかりにさっさと諦めて部屋を出た。
 玄関の扉の向こうで話し声がする。まだ数えるほどしか使っていないブーツを履いて出てみると、伸と遼がそれぞれ別の方向へと、やや強引に雪を踏みならしているところだった。
「ごめんなさい。物置まで行けないの…」
 先ほどと全く同じ姿勢のまま、ナスティは情けなさそうに征士に告げる。雪は、彼女の膝上まで達している。
「思わず飛び出しちゃったらしいんだけどね」
 伸の言葉に、四人そろって苦笑を洩らした。
 降ったばかりにもかかわらず、随分と固く重い雪だ。これは骨の折れる作業になりそうだと、密かに危惧しながら征士は伸のほうへと向かう。
「鍵をくれ」
 物置の鍵を受け取ると、そのまま大股で雪の中へと踏み込んだ。
「お~、征士、楽しそうだな~」
 ちょうど現れた秀が茶々を入れる。征士は振り返り、真面目な顔で答える。
「馬鹿なことを言うな。ブーツの中まで雪が入って困る」
「でもやる気満々、ジャージだよな」
 背後から遼に言われて顔を向ける。
「当然だ。そういうお前もだろう」
 言い返すと、遼は、
「ちなみに『ももひき』はいてます」
 と、力強くガッツポーズを作ってみせた。
「嘘っ!!」
 伸の叫びと秀の笑い声が重なった。
 その後、どうにか物置まで辿り着き入口を開けはしたものの、目的のものはなかなか見つからなかった。
「雪かき用のスコップなんてあるの?」
「あるはずよ。去年は使わなかったけど」
 それぞれの学校への連絡を入れ終えたナスティが、小屋の中を探し続けている伸と話している。こちらはよく使い慣れている土を掘るための大きめのスコップで、一応の通り道だけ確保した征士は、秀と交代してナスティたちのもとへと戻る。
「他に使えそうなものはないか?」
「竹箒ならあるけど、今日はあまり役に立ちそうにないわよね」
 答えるナスティに征士は頷く。鍬も熊手もだめよねー、と呟いているのに、何かイメージが違ってやしないかと思いながら庭に目を戻す。
 秀が作りかけて挫折した雪だるまが見える。固すぎてうまく雪同士がくっつかないらしい。そのだるまもどきの横を、秀が勢いよく掘り進んでいく。
「秀、飛ばし過ぎるな。先は長いぞ」
 うーい、と軽い返事が返る。小屋の中で、
「いったい僕らはどこまで除雪すればいいんだい?」
 と、伸が早くもうんざりしたように口にする。
「気の遠くなるようなことを聞くな」
 はぁ~、とため息をついて伸はしゃがみこむ。その拍子に視線の高さが変わったのだろう。
「あった」
 伸は、いくつもの箱の向こうに倒れている雪かきスコップを指さした。


 結局あの日は誰も学校へは行けなかった、とマンションのエレベーターを降りながら征士は思い出す。
 朝食後、征士と遼は街への道を拓くべく柳生邸からの一本道を除雪し始め、雪かきスコップの幅の道(というよりは「溝」というほうが近い感じだったが)を作り終えたその足で、もう一つ雪かき用のスコップを買って帰った。
「オレ、明日、体動かないかも」
「同感だ」
 遼に同意した征士に、
「君が言わないでくれるかな」
 と伸が嫌そうに言う。
「この辺でもこんなに降るんだなあ。本気で今朝はびっくりしたぜ」
「いきなりだったしね」
 秀の言葉にうなずいて、僕もてっきり雨だと思ってたから、と伸は言い添えた。
「でもなんだか、これだけ降ると空が綺麗になりそうじゃない?」
 男手の多い中で、一人、肉体労働から完全に離れた場所に位置するナスティが、暢気とも前向きともとれることを言った。それに、空か、と胸の中で呟いたことを征士は今でも覚えている。
 やがて休憩も兼ねた少し遅い昼食の時間になって自室へ戻ってみると、顔だけは出しているものの、当麻は未だに眠りの中だった。
「いい加減に起きんか」
 言いながら髪をくしゃりと掴むと、何を思ったのか当麻が微かに笑みを見せた。頬へと移った征士の手の甲に左手で触れる。
「何だ?」
「…すげー……雪のにおい…」
 そうしてうっすらと目を開け、当麻は嬉しそうに征士へと笑いかけた。
 鼓動が速くなる。
「においなどあるのか?」
 緊張をごまかすように口にする。当麻はもう一度目を閉じ、深く息を吸い込んだ。
「あるさ」
 征士の意識に、当麻の思い描く雪の白が紛れ込む。頬に当てたままの掌に気持ちを集中させると、当麻も気づいたらしく口許をさらにゆがめて面白そうに瞼を上げた。
「雪が嫌いなわけではないのか」
 朝の様子では雪など大嫌いだと言いそうだったのにと、征士は思いながら尋ねてみる。少しだけ考える素振りを見せてから、
「寒いのは嫌いだ。雪は別に嫌いじゃない」
 と、当麻はぶつ切りに答えた。そうして、
「お前、雪、好きだろ?」
 と続けたのに、何故そう思うのかと征士は首を傾げた。
「嬉しそうな音だった。今」
 今、というのは、征士が当麻の中の色を感じていた短い間のことだろう。当麻のほうでは、征士の音を聞いていたらしい。
「嬉しそうだったか?」
 そうだろうか?
 そんなつもりは特になかったのだが、と憮然としてみせた征士に、
「嬉しそうだった」
 と、当麻は断言してまた笑った。


 雪はやむ気配を見せない。あとからあとから降ってくる雪片を、征士は時折掌に受けながら、人通りの少ない道を歩く。あのときよりもずっと少ない積雪ではあったが、白さも冷たさも、そして心が浮き立つように感じさせるところも、変わりはしないと思う。
 近所をひと回りしてからマンションへ戻ると、こたつにもぐりこんだ当麻が床すれすれの位置から「おかえり」と告げた。
「どこ行ってたんだ?」
「散歩だ」
「はぁ? この雪の中をか?」
 ほんっと物好きだよな、と呟く。
「ほら、土産だ」
「おっ、ラッキー」
 コンビニの袋を差し出すと、やっと座り直して受け取った。中身は中華まんだ。
「ほんなに降っはの、ひはひふりひゃねぇ?」
 肉まんにかぶりつきながら喋る当麻に、食べるか話すかどちらかにしろと、人生で何度目かの科白を征士は口にする。その時だけ当麻が従うのもいつものことだ。
「ま、でも、ここなら雪かきしなくてすむからいいな」
「お前はそうだろうな」
 おざなりに答え、キッチンへ足を向ける。コーヒーメーカーから咳込むような音といい香りが漂ってきていた。
 当麻の雪かきは、手よりも口のほうが数倍よく働く。誰よりもよくそれを知っているのは征士だろう。あの日も、夕暮れの迫る坂道で一緒に雪かきをしながら、何度、
「つべこべ言わずに手を動かせ」
 と言ったかしれない。
 だが、そうしながらも、こんな時間ですら恐らく自分はいつまでも覚えているのだろうと、少なからず予感していたのも確かだった。
「私は、雪は好きだ」
 二人分のマグカップをこたつの上に置きながら、征士がゆっくりと話し始める。
 凛と凍る空気も、雪降る日の静けさも、手足を濡らす冷たさやすべてを白く包み込んでいくさまと共に、征士の中には一つの風景として存在している。決して綺麗なだけではない厳しさも知りながら、それでも、大切な季節の流れの中で、何一つとして疎ましいものなどないと彼は感じるのだ。
「それに――」
 雪は、と征士は言葉を続ける。
「空を浄化してくれる」
 静かな部屋に、征士の声が低く響く。当麻が、ことり、とカップを置く。
「大気が澄んで、青空も星空も美しくなる。宇宙が近くなるような気がして……何となく、嬉しい」
 両手で包み込むように持っていたマグカップから視線を外し、征士は顔を上げて当麻と目を合わせた。
「似合わんか?」
 揶揄も自嘲もない表情。どう感じるかを、当麻一人にただ問うのみの穏やかさがあった。
 答える当麻にもよく似た静穏が訪れる。
「いや、いいよ」
 微かに目を細め、征士は当麻を見つめ続ける。
 地上十階の窓の外にも、勢いを失うことなく雪は降り続け、空とビルとの境い目すらも曖昧にしながら積もっていく。あの日感じた当麻の白が、征士の心に蘇る。
 黙したままの征士に照れたように、当麻がにやりと口の端を上げた。
「――なんだ、俺、また、口説かれたか?」
 征士はうっすらと笑う。
 そうして、顔を伏せて小さく肩を揺らした当麻に手を伸ばし、満足そうに抱き寄せた。

掲載日:2006.01.24

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