Pulse D-2

雨音の向こう

 何か、夢を見ていたな。
 当麻はゆっくりと記憶をたどる。甘く心を溶かすような感触と、熱く全身を貫くような感覚。初めて経験した何かにこの上ない充実感を得ていた――と、ここまで考えたところで、その正体に思い至って小さく笑った。
『夢じゃないだろ』
 身体中を覆うだるさ。だが、嫌な感じがしないのは、それが幸福な事実へと繋がるからだ。
 納得しながら、布団の中で僅かに体を寄せた。すぐそばに眠る征士の体温が、緩く当麻を包み込んだ。
 目を開けても、まだ室内は薄暗い。月明かりがなければ、山の中の柳生邸は深い闇に沈む。ふだんは暮らす者も多くにぎやかな声が飛び交うが、皆が出払い言葉も少なくなれば、家そのものも静寂の中で眠りにつく。昨夜は、そんな夜だった。
 二人以外には誰もいない家で、初めて征士と肌を重ねた。
 出会ってから二年とすこし。こんな関係になるのは不思議なことの筈なのに、なってみると当然のことのような気もして、そんな自分に当麻は呆れる。それでも、彼を離したくない気持ちが増しているのは確かだと思った。
 どう触れようか。お互いに少し迷ったのを覚えている。
 どちらがどの立場に立っても一向に構わなかった。男同士、同じ行動を取ることが可能なのだから。ただ、これまで、抱き締めたり口づけたりしてくるのは征士からのことのほうが多かったので、そういうスタンスのほうが彼には自然なのだろうか、と思った。
 実際に始めてみると、征士の触れ方はあまりにもやさしくて、行為の中身以上にそのことが照れ臭かった。と同時に、胸の深い深いところまで、彼の掌の肌ざわりや唇の熱が染み透っていくようで、身体の中心のうずきとは別の熱さが胸を中心にして膨らんでいくのを感じていた。
『思い出しても恥ずかしい…』
 微かに鼓動が速まるのを気に留めながら、当麻はそっと夏布団から手を出した。
 白い頬に触れ、柔らかな髪を掻き上げる。薄く瞼を上げた征士に笑みを浮かべると、間近で彼も静かな微笑みを見せた。
『朝一番にこの顔かよ』
 脱力しそうになる頭とは裏腹に動悸はますます激しくなり、当麻は息を抑えるのに苦労する。相手の顔の造作の美しさなど取り立てて気にしたことはないのだが、こんな時にはやはり意識せずにはいられなかった。
 ところが、そんな当麻にはお構いなしに、征士はベッドを下りようとする。
「…もう少し、居ろよ」
 当麻が腕を取り引き止める。ムードのわからない奴だな、と言いたげな表情を浮かべていた筈だが、目をベッドへと戻した征士は再び口許をほころばせて、左手で当麻の髪をくしゃりと撫でた。
「窓の開いている部屋があるかもしれん。見てくるだけだ。――すぐに戻る」
 最後だけ、目を逸らす。そうしてさっさとTシャツを着込み、彼は部屋を出ていく。黙って見送った当麻は、
『あ、何か照れてるな』
 と、枕に伏せてひとり笑った。
 ずっと続いていたのが雨の降っている音だったのだと、当麻はようやく気付く。その音は、さらさらさらさらさ…と絶え間なく聞こえ、雨音というよりも湖のさざ波に近い印象を与える。そして、雨や風が強くなるごとに、イメージの中の波も高くなっていくのだ。
 昨夜から降っていただろうかと、耳を澄ましながら当麻は考えてみる。征士も今ごろになって窓を確かめに行ったくらいだから、彼が眠りにつく頃にもまだ降っていなかったのかもしれない。少なくとも、どちらのベッドにするか決めた時には外は静かだったし、キスを繰り返すあいだも、胸元を滑り下りていく唇をくすぐったく感じていた時も、風に揺れる木の葉の音だけが聞こえていたように思う。
 だが、その先のことには自信がなかった。
 身体を繋げる行為は、彼の予想以上に当麻に負担をかけた。情けなくも声が洩れ、両目には涙が滲んだ。
『大丈夫か?』
 何度も征士は声を掛け、心配そうに顔を覗き込んできた。当然、その度に動きを止めたり緩めたりもしたが、決して途中でやめようとはしなかった。その姿勢に、当麻は内心、合格、と呟いていた。
「辛いならやめるが?」
 なんてことを言ったらぶっ飛ばしてやるつもりだった。
 気遣ってくれるのはありがたいが、半端にされても困る。そんなことを言うくらいなら最初から手を出すな。
 そう思っていた。
 だから、
『我慢してくれ』
 と征士が低く言った時、後戻りするつもりなどないらしい彼の態度に安堵し、再び胸が詰まったのだ。
『…いい、平気…だいじょ、ぶ…』
 答えた直後に大きく突き上げられ、あとはもう、荒い息の合間に征士の名を呼ぶので精一杯だった。
「――俺も、恥ずかしい奴…」
 枕の中に言葉を埋める。そうしながら室外の気配を探り、やがて、
「征士?」
 と小さく声にした。答えたのは、風に吹かれた木々のざわめきだけだった。
 ゆっくりと起き上がり、下着一枚の姿で廊下へと出る。征士が階下へ行ったのは確かだったので、そろりと階段を下りていく。下り切ったすぐ横の部屋から明かりが洩れていた。
「あっちゃー…開いてた?」
 本だらけの部屋に、雑巾を手にした征士の姿があった。もとが書庫のため窓はそれほど大きくはないが、それでも、正面に置かれた机の上はすっかり水びたしになっていた。濡れているのは、当麻が最近買った分厚い専門書だ。
「馬鹿者。よりによってここの窓を開けておくなど…」
 だが、そこで征士は言葉を切り、近づいた当麻をちらりと振り返って頭を下げた。
「すまん」
 何が? と当麻のほうが驚く。征士は濡れた本へと視線を戻す。
「私が迂闊だったのだ。降り出した時から気付いていたのに、つい……そばを離れるのがもったいなくて――」
 目を伏せる征士に、当麻は暫し言葉を失う。それから、呼吸を整え、静かに佇む背中へと額をつけた。
「うん。もったいないよな」
 緩く腰に腕を回す。
「みんなが戻るまで、もう少し、時間、あるだろ?」
 それまで――と言い掛けた唇に、征士の口づけが落ちてきた。
 二人の吐息を隠すよう、雨は一日、降り続けた。


 ああ、やっぱり征士がいる。
 隣に寝ている者の姿を認めて当麻はぼんやりと思い、それからすぐに、当たり前だろうと苦笑した。
 一つきりの寝室、一つきりのベッド。共に眠る人物も、一人きりと決めている。――決めたからこそ、ここにいるのだ。
 新しい家の、静かな空間。包み込むように聞こえてくる、無数の雨の協和音。
 それは、懐かしい雨音だった。
 柳生邸で聞いていたのと同じ、木々に落ちる雨の音。
 ここ何年もずっと嫌っていた雨のイメージが、全てこの音に流されていくのが分かった。
『なんで忘れてたんだろうな…』
 雨の日には、こんな思い出もあったのに。
 そう、本当は、雨の日は好きだったのに。
 十年以上も前の自分たちの、平穏な日常に降っていたたくさんの雨。その小さな思い出の一つひとつが、当麻の中に次々と甦る。
 気温の低い雨の日は、寒さを理由にそばにいられる。
 濡れて歩いた帰り道、必ず差し掛けられた征士の傘。
 ちょっとしたいたずらは、大きな傘が隠してくれる。
 慌てて取り込む洗濯物の、太陽の匂いに笑い合った。
 雨音の中で囁き交わす言葉も触れ合う肩も見交わす視線も、本当は大好きだったのだ。
 そんな全てを、たった一つの悲しい記憶で消し去ってしまっていた自分が無様に思えた。
 目を閉じたままの征士へ手を伸ばすと、触れるより先に瞼が上がる。変わらず向けられる綺麗な微笑に、飽きることなく胸が高鳴る。
「ここだと、雨の音が気持ちいいな」
 言えば、征士は耳を澄まして目を細める。
「向こうから、お前が傘持って走ってきそう」
「…何の話だ?」
 けげんそうな声に、当麻は小さく笑う。
「雨の日は好きだ、って話」
 真意を窺うような征士の視線を、正面に捉えて見つめ返す。当麻が雨の日を嫌う理由を知る彼に、もう平気なのだと伝わるようにと。
「…ずっと…抱き合っててもいいかな…って、話――」
 雨音に溶け込むような声を、征士の両腕が抱き締めた。

掲載日:2005.06.20

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