Pulse D-2

やがて明ける夜の中で

 ぽっかりと、夜明け前に目が覚めた。布団に入ってからまだ二時間しかたっていない。部屋の中は勿論暗く、時計の針の動く一定のリズムだけが妙に大きく響いていた。少し離れた隣のベッドでは、まだ征士が静かに――それこそ寝息も聞こえない程静かに――眠っている。
 当麻はゆっくりと布団から抜け出し、階下へと足を運ぶ。上着を羽織ってもやはり寒く、寒いのは苦手な筈の自分が何故こんなことをしているのかと不思議に思った。いつもならもう一度寝直すのに、どういった訳か、今は外へ出て行きたかった。
 完全に起きるつもりになって、当麻は服を取りに行く。洗濯を終えた衣類は、ある程度洗面所の棚に置いてあり、持ち主ごとに分けられたその衣類をいつもきちんと片付けるのは征士と伸、時々忘れているのが遼と秀、棚が一杯になるまで放っておくのが当麻だった。そこから少し厚手のシャツを抜き取り、同じく洗いたてのセーターとジーパンを身に着け、コートを着込み手袋までして彼は外へ出た。
 早春の日の出前の空気は冷たく済んでいて、当麻は一度ぶるりと震える。背中を丸め、肩を竦めていると、
「寒いのは縮こまっているからだ。胸をはって風を受けてみろ。案外気持ちの良いものだぞ」
 と言った征士が思い出されて、当麻は深呼吸をした。手はポケットに突っ込んだまま少し上を向いて大きく息をつくと、気持ちの良い空気が自分の中へ入ってきて、それまでなんとなく動いていただけの体が急に目覚め、手足にも頭脳にも心臓にもはっきりとした感覚が生まれてくるのだった。
 暗い中で、遠くを過ぎる貨物列車の音や家の周りの森の生き物の気配、信じ難いほどの永い時を経て届いた星々の光が一遍に当麻の中へと流れ込んできて、目眩さえ感じてその場に立ち尽くす。時折吹く風に目を閉じ、それが、ここ一年で初めて鎧を纏わずに受けた心地よい風のような気がして、もう少しこのままでいようと微笑む。そうする間にもまた、音と光と様々な者たちの感覚が当麻自身を満たそうとするかのように流れてきて、彼の手足の先にまで力を与えていくのだった。
 やがて当麻は瞼を上げ、ゆっくりと坂を下り始める。彼らのいるこの家は小高い山の中腹にあり、街を見下ろせるようにゆるやかな坂道が伸びている。山側には背の高い木々が立ち並び、新しい芽を吹き始めていた。
 しばらく行って、立ち止まる。そこで街を眺め、
               木々を見上げ、
               一つ大きく息を吸って、吐いて、
               また歩く。
 そのうちまたふいに足を止め、地面を見下ろし、
               星を見遣り、
               大きく一つ息を吸って、吐いて、
               彼を促すかのように吹く風と共に歩き出す。
 目を凝らし耳を澄ませて、全てのものを見全ての音を聴き、あらゆる事を感じ取ろうと、当麻は感覚を研ぎ澄ませていた。ただそれは、先日までの戦いの中での集中のようなぴりぴりと肌や神経に訴えかけるものではなく、知らず知らず自然と透き通っていくような、感覚の冴えであった。確かに何かが、確かに何かを、彼に伝えようとしていた。そして当麻もそれを感じようとしているのだ。
「何だ?」
 言葉にしてみるが勿論答えはなく、終わりのない流れを感じながら坂を下りきると、新聞配達の少年が自転車で過ぎて行く。まだ日は昇っていないが、空は明るくなり始めて当麻の鮮やかな瞳とよく似た色になっていた。星々は光を失い、明るい感覚のみが最後の光を投げかけている。
 その空を見た途端、当麻は今来た道を逆に駆け上がり始めた。
 土が、木々が、家が、彼を呼んでいた。早く戻ってこいと言っている。何故だか分からないがそんな気がして、息があがるのもかまわずに彼は走り続けた。
 この坂を――
と、当麻は思う。
 この坂を、今日ほどゆっくり歩いた事があっただろうか。
 この坂を、これほど必死に上ったのはいつの事だったろう。
 この木々が葉を落とした時も、この地面が雨に濡れた時も、熱い日差しの中で陽炎を見た日も、月が蒼く街を照らした日も、この道はここにありこの街はここにあり、この木々はここに立ち人も鳥も虫もここで生き、風が、水が、光が、大地が、皆を包み、育み、そして自分たちは――
 仲間たちと過ごした日々の記憶が一度に甦り、はっきりと事態が呑み込めないまま泣きたいような気持ちになる。目覚めた時からずっと感じている何かがいよいよ迫ってきていて、早く早くと彼を急き立てた。
 漸くもとの庭まで戻ってくると、当麻は荒い息をつき、その場へ座り込んだ。その彼に、もう一つの影が近づく。
「待っていた」
 当麻が部屋を出た時同じ部屋で眠っていた彼は、当麻と同じように着替え、静かな気を纏って話していた。
「お前が出て行くのが分かって、だが、すぐ戻るだろうと思っていた。玄関の開く音がしたので気になって追ってきたのだが――笑ってくれても良い――行くなと言われた。……森か、土か、風に……その全てかもしれないが。追って行くなと言うので待っていた。おかしな話だろう?」
 だが、そう言って微かに笑う征士も、傍の当麻も、特におかしなことではないと思っている。当麻を待つ間に征士の中にも様々なものが流れ込んできていて、その次に来るものを、今は、当麻と同じように感じて待っているのだった。ここにいて、きっともうすぐ夜の明ける時に、それははっきりと分かる筈。
「俺は――俺たちは、戦って、戦って――」
 言って、当麻は首を振る。何を言おうとしているのか分からない、というように。
 征士はそんな当麻の傍らに立ち、小さく頷く。
「私にも分からない。だが、おそらくもうすぐだ」
 それきり、二人は何も言わずに街を見下ろしていた。少しずつ目覚め、動き始める街を。
 少しの音と、少しの生気を伴い始めた街を。
 そして――
 それは突然やってきた。
 朝日の最初の一筋が街を照らし出したその瞬間、街は彼らに訴えかけたのだ。それまで彼らの感じていたものの何倍もの意思が、まっすぐに彼らの内へと満ちてくる。とても雑多で受け止めきれない言葉だったが、それは紛れもなく“正”の――そして“生”の――感覚だった。生きるものの、生きているという意志であり、力であった。
「笑わないでくれるか」
 街を眺めたまま、当麻が、一つひとつ言葉を綴る。
「いま初めて、俺な――実感したよ」
 この街を見て、と当麻は続けた。
「本当に守ったんだな、俺たち」
 誰も知らないけれど。
 彼らの戦いと苦しみを知るのは彼らだけで、他人は誰一人として彼らに感謝も敬意も感じないけれど、大切なのはそんなことではなく、皆の望む、皆の生きていくであろう世界を守り抜いたことで、その再び訪れた平和の中で皆が、生きる意志とともに在ることなのだ。そして自分たちもそろって、その生の中に含まれていること。
「ほんとに、やっと実感が持てたな」
 そう言って、当麻は明るく笑った。
 圧倒的な流れの中で、確かに彼らは生きる力を感じ、そして、自分では理解しているつもりで本当には分かっていなかったこと――自分たちの戦ってきた結果――を知ったのだった。
 当麻はそれを言葉にし、笑顔に変えた。
 その笑顔を見て、征士は更に強く、実感する。心から笑える日がきたのだと。
「本当に――」
 と、征士は呟く。
 笑う当麻に目を向け、もう一度街を見渡し、緩く微笑しながらゆっくりと二、三度頷くと、二人を取り込んでいた意思の波がゆるやかに遠ざかり、消えていく。朝日が彼らにまで届いて青と金の二人の髪を輝かせると、お互いに顔を見合わせて、悪戯っぽく笑った。
 当麻が立ち上がると、
「おはよう」
 と元気の良い声がした。その時になって初めて、あの流れの中にいたのは自分たち二人だけではなかったのだと気づいた。遼が、伸が、秀が、同じように流れ込む意思を感じ、自分たちの感覚をも開いて応えていたのだった。
 手を振る遼に、二人は笑顔を返す。
 彼らの背後で昇る日に当麻はもう一度だけ振り向いて、やがて、征士と並んで歩き出した。

掲載日:2002.06.09

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