Pulse D-2

a peaceful day

 軋むドアを開けると、それはそのまま細く急な階段へと続く。品の良い老婦人の、いらっしゃい、の声を背に当麻はゆっくりと階段を上り、窓際の席にいる征士の傍らへ立った。
「悪い……」
「――いや。いつもより随分と早いだろう?」
 約束の時間はとっくに過ぎていたが、いつもに比べたら早く来た方だと征士は澄まして言う。それに曖昧に応えながら席につくと、老婦人が注文を取りに上がってきた。
「えーっと。…ルシアン・コーヒー」
 いつも通りのオーダーに婦人は微笑して階下へ消え、その姿を見送っていた征士が視線を当麻に戻すと、当麻は少し慌てて「何?」と尋ねた。
 曇り気味の休日。昼過ぎに起きてみると家にいたのはナスティだけで、皆それぞれに出かけたと聞かされた。軽い食事をとってパソコンに向かっていた午後二時、征士との約束を思い出し、やってくる。
 駅からきっかり七分。商店街が途切れる角に、この喫茶店はある。
 敷地が狭く、客席は二階だけで、入れてもせいぜい十五、六人という店である。建物自体も古く店内は暗いが、その分落ち着いた雰囲気を持っている。経営しているのは物静かな老夫婦で、その辺も、当麻たちの気に入っている理由になっていた。
「欲しがっていた物を見つけたのだが。どうかと思って」
 そう言いながら征士は小さな箱を取り出した。渋い色合いでまとめられた綺麗な包みを、当麻は丁寧にといていく。
「あ……」
 くすんだ銀色の懐中時計がひとつ、箱の中に収まっていた。それは当麻が二週間ほど前に欲しがった物よりも、更に当麻の好みに合っていて、彼は何度も蓋を開けたり閉じたりしていた。
「おまえが言っていたものはもう、製造もされていないらしくてな。――気に入らなければ返すが」
「とんでもないっ」
 ぱっと当麻が顔を上げる。ちょうどやってきた老婦人が口に人差し指をあてて、しーっ、と言って笑い、甘いかおりのするコーヒーを置いていった。
「すっげー気に入った。もらっていいわけ?」
 さも嬉しそうに、しかし小声で当麻が言う。
「ああ」
 征士は軽く返事をすると、よかったと呟いて少し冷めたコーヒーを口にした。
 やがて、奥の方に座っていたカップルが席を立つ。男の方に見覚えのあるような気がしてそちらを見ると、彼も気づき、征士に軽く片手を挙げて階段を下りて行った。
 店内には二人だけとなり、低く静かに音楽が流れる。
「もう忘れてんだと思ってた」
 うまく時計を胸元におさめた当麻が、そう言ってコーヒーを一口飲む。
「あれだけ言われたら、普通は忘れないと思うぞ」
 征士は答えながら、ふと気づいて腕を伸ばした。長い指が、当麻の背になっている壁の一点を指す。
「おまえの名前だ」
「へ?」
 振り向いて征士の指先に目を向けると、幾つもの落書きの中に確かに『当麻』という文字も彫られていた。古い傷で、それはかなりぼんやりとしていたが。
「気がつかなかったな」
 いつもこの席なのに、と当麻が笑う。それを見ながら、どうしてだろうと征士は首を傾げた。
「何が?」
「何故こんなふうに落書きをするのだろう」
 壁にも机にも椅子にも、たくさんの名前や言葉が刻まれている。それは愛の告白だったり、愚痴だったり、けなし文句だったりしたが、『当麻』には何の言葉もついてなく、ただぽつりと名前があるのだった。
「さあな。なんとなく書くのかもしれないし、本当に好きだとか憎いだとか思ってるのかもしれないし。自己顕示欲が強いだけかもしれないし」
 言いながらスプーンを持って、壁に向かう。
「どれにしてもさ……どっかでそれが気になってるから、つい書いちまうんじゃねえの?」
 そして、柄の先で『当麻』の右上に『征士』と書いた。
「そうなのか?」
「と、思うけど」
 いたずらっぽい当麻の表情と新しい落書きとを見比べて、征士は少し複雑な気分になりながら、コーヒーを飲みほした。


 バス停で待つこと十分。ようやく来たバスは嘘のようにすいていて、二人はほっとして乗り込んだ。
 二人が帰る頃になっていきなり雨は降ってきた。
 二人とも傘を持っていなかったのでこうしてバスに乗ったのだが、悔しいことに、バスを降りる時にはもう雨はすっかりやんでいた。
「何なんだ…」
 空を見上げて当麻がぼやく。つられて、征士も暗くなり始めた空を見ていた。
「なあ」
 ふいに当麻が振り向く。
「これ、お前に貰ったって言っていいのか?」
 さっき貰った時計をさしてそう言う。
 彼の誕生日が近かったので、それがプレゼントになるのか、と言うのである。征士たち五人とナスティとで、それぞれの誕生日は個人的な贈り物なしにすませようと約束していたので、それが征士からということは黙っていた方が良いのかと、当麻は思ったのだった。
 だが、征士は、そんなことは気にしないといった様子で、かまわない、と言った。
「私がそれを当麻に渡したかっただけだ。誕生日とは関係のない、ただの気が向いたからしただけのプレゼントだ」
「――サンキュ」
 笑って、照れながらこう言うのがやっとだった。
 やがて柳生邸が見えてくる。少し先を歩く当麻が、庭先に遼の姿を見つけて走って行く。
 自転車を出してどこかへ行くらしい彼と、二言三言かわすと、幼い子供のように時計を見せびらかしてみる。それに対して何か言っていた遼が、征士に気づいて叫んだ。
「征士ーっ。俺も欲しーい」
 そんなに遠くから言うなと笑う征士のそばまで来て、また、俺も欲しいとせがむ。
「今度な」
 征士が言うと、
「その言葉、忘れんなよ」
 と言って、坂を下って行った。
 遼の行く先にたたずむ街並は少し霞んで見える。そのやわらかい光景に見入るうちに、吸い込む空気が冷たくなっているのに気づいた。
 振り向くと当麻はまだそこにいて、暮れていく街を眺めている。
「中へ入ろう」
 近くで征士が声をかけると、突然呪縛から解かれたように顔を上げて家へ向かった。
 やがて日が沈むと、ようやく雲の切れた空にいくつもの星が輝き始めるのだった。

掲載日:2005.11.01

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