Pulse D-2

月の雫

 秋の長雨、と思う間に眠っていたらしかった。
 外ではまだ雨の音が聞こえていたが布団の中は温かい。そのうえで、間近に感じる寝息と自分の肩に添えられた腕とに当麻は気づく。風邪を引くぞ、と、気遣う静かな声が聞こえてきそうだった。
 隣に眠る征士は、まだ仄かに湯上がりの香りを漂わせていた。雨続きの日に限って連日出掛けなくてはならなくなり、今夜も遅くなると暗い夕刻にメールが届いていた。待たずに眠るのも、逆に、彼の帰宅に気づかずに仕事部屋に籠もっているのも珍しくない当麻に、征士が特別な言葉を掛けることはない。だが、共用の布団に潜り込めば、どちらからともなく肌を寄せて眠るのが常だった。
 室内に明かりはない。窓から漏れ入る光を提供するような隣家もない。降雨の空に、月のあるはずもない。視覚だけを頼りにするなら、隣にいるのが慣れ親しんだ相手だという保証はない。別人だったら…と少しだけ想像しようとして、当麻は小さく口元を歪めた。
『今さら間違えようがないってな』
 この気配、この触れ方。征士以外の誰かとこんなふうに過ごしたことがあるわけではないけれど、暗く静かなら尚更に当麻の身にも馴染んだものを感じるのだ。
 そのよく知った気配にほっとし、うとうとしながら、それでも熟睡することなく当麻は時おり瞼を上げる。気持ちよすぎて眠るのがもったいない。そんな気分で目前の闇を見つめ、屋外の雨音に耳を澄ます。不規則に、強く弱く雨が吹き付ける。家の屋根、窓ガラス、周囲の木々の葉を叩く音。ありふれたものであるはずのそれら一つひとつに、小さな思い出が重なっていく。
 この家に来て五年ほど。征士と暮らし始めてからなら十五年。出会いから数えれば二十三年と数か月。
『よく続いてる…』
 むしろもう自分の一部なのだと自然に思う。そう思えるようになったことを、とても深く、嬉しく思う。
「征士」
 低く呼んでも答えはない。ただ、静かな寝息が返るのみだ。そんな夜も数えきれないほど過ごしてきた。逆の立場で征士が眠る自分を見ていたこともあるのだろうかと考えると、むずがゆいような可笑しいような更に安堵するような、柔らかな気持ちに包まれて当麻はまた目を閉じた。
 ふうっと息を吐く。そっと手を伸ばし、手探りで征士の顎から頬へと掌を移す。すると、当麻の肩に置かれていた手が背へと回され、ぐっと当麻を引き寄せた。
「おっ…」
 首の下にも腕が通され、征士の両腕にしっかりと抱き締められる。腕の硬さも強さも胸の温もりも心地好いが、一方的に好きなようにされるのは楽しくない。
「何だよ急に」
「誘ったのはそっちではないか」
 頭上からさも当たり前といった感じで落ちてくる声。その調子にも心が馴染みすぎていて、当麻は内心笑い出しそうになる。
「莫迦言って…っていうか、お前さぁ、そういうところ、オヤジ臭くなったな」
「失敬な」
 答える声にも笑いが含まれていた。
 征士には見えているのだろうか。額に、鼻筋に、閉じた瞼に、静かなキスが落ちてくる。ちょっと久し振りかもしれないと思う当麻も、黙って全てを受け止める。頬から唇へと征士は息を移して、ゆっくりと優しく当麻に触れる。
 揶揄するような言葉とは裏腹に、与えられる口づけは清廉だ。初めて彼と交わしたキスと何ら変わりない。照れ臭さと嬉しさと、少しの切なさと満足感と、いくつもの想いを綯い交ぜにしながら、当麻も伸ばした腕を征士の背へと流した。
 口づけはやがて愛撫に変わる。優しさが熱さに変わり、想いは欲へと収斂されていく。そのなかで、肌がこの上なく征士を欲しがっているのを当麻は感じ、ひと言ふた言、甘い言葉を征士に告げてみる。耳を寄せて目を細める、そんな征士の様子を想い描く当麻に、征士からも短く低く声が届いた。二人分の笑う気配と熱いキス。夜着も下着も脱ぎ去り、肌を重ね、身体を繋ぐ。
『何度目だろな』
 もちろん数えてなどいないし、知りたいわけでもない。ただ、一度ごとに、それぞれ全て大切に触れてきたつもりだ。次はないかもしれないと思ったことも、このままじゃ駄目だと苦しく感じながら抱き合ったこともあった。欲しいと思う裏側で、いつでもそういう過去を繰り返し思い浮かべてきた。
「当麻」
 熱い息を小さくこぼした当麻を、征士が秘密を打ち明けるかのように秘やかに呼ぶ。目を上げると、視界に征士の髪の金色が広がった。
 雨の音が止んでいる。月が出ていた。
 窓へと目を向けた意図に征士も気づき、軽く笑ってから当麻の頬に口づける。カーテンの隙間から細く漏れ入る月光は頼りなくも明るく、横たわる当麻を余計に妖しく見せる。征士はこれくらいの明るさが好きなのだと当麻が知ったのも、この家に来てからだった。
『俺も好きだけどな』
 人工の灯りの入らない部屋。木々の間を縫って届く光は昼も夜もやわらかく、それを感じるふとした瞬間に、当麻は今でも、光輪、と懐かしい名で征士を思う。
 月のやけに綺麗な晩についういっかりそれを口にしたら、
「私はこの地の風が好きだ」
 と返された。あんまり当たり前に征士が言うので、照れるより先に大笑いしてしまった。
「何故笑う?」
 と、征士は不満げだったが、笑いながら彼の肩に凭れた当麻に気を良くし、その晩も丁寧に当麻を抱いた。抱かれながら、きっとこういうやり取りも自分は忘れないのだろうと当麻は思ったのだった。
 互いの熱を吐き出して、しばらく呼吸を整える。やがて身を引き始めた征士の顔を覗き込み、当麻はいたずらっぽい目をしてみせる。
「もう少し、付き合う気、あるか?」
 明日も休みなんだし、と続けると、征士はちらりと枕元の時計を見遣って言った。
「もう、今日だ」
 つられて視線を動かす。その拍子に上向いた耳に、ゆったりと甘い声がそそがれた。
「誕生日おめでとう、当麻」
 あ、と間の抜けた声が出た。見上げれば征士も綺麗な笑みを見せている。
「お望みとあらば、いくらでも付き合うぞ。――何時間でも、何日でも、何年でも」
 どう答えたものかと迷いつつ、当麻は口元を緩めて金の髪へと指を絡めた。

掲載日:2011.10.09

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