Pulse D-2

愛していると囁いて (1)


I'll be your sweetheart tonight.
So please whisper, "I love you".



「よいしょ、っと」
 狭い玄関に買い物袋を置く。扉を開けたまま待つ伊達を振り向くと、今置いたものよりやや重い袋を受け取る。
「ほんとに着替えだけ持ってくればいいから。歯ブラシもタオルもシャンプーもドライヤーもうちのを使えばいいからな」
 なるべく世話にならないようにと必要なものは全て持ってきそうな伊達に念を押す。相手は小さく笑って頷いてから、
「宿題は持ってくるぞ」
 と真面目な顔で口にした。
「はいはい。一緒にやろうな」
 軽くあしらうつもりで返したものの、その言葉に自分でどきりとする。
「なんかそういうの、ちょっと新鮮」
 思わず視線をそらす。その耳元に、
「それは楽しみだ」
 と囁いて、伊達は少しいたずらっぽい笑みを見せた。
『あ、この顔、好きかも』
 ちらりと見上げて思ううちに、伊達は扉を閉めて去っていった。
「よっこらしょ」
 買い物袋を両手に提げて、わざと声に出して部屋の中を移動する。冷蔵庫の前まで来て大きく息を吐いたのは、荷物の重さのせいだけではなかった。少しの緊張を自覚していた。
 伊達と同じクラスになって4か月弱。間違いなく高校に入ってから最も多く顔を合わせている相手だ。はじめは担任の教師に言われて仕方なく訪ねてきていたらしかったが、2、3度会ううちに用件以外のことも話すようになり、意外に面倒見のいい彼の様子に驚いた。そして同時に、それを嫌だと感じていない自分にも気づいて驚いた。
 他人に干渉されるのは好きじゃなかった。自分には自分のやり方があり、自分のペースがある。学校なり社会なりに属していればそうそう自分のやり方を貫けるわけではないとわかってはいても、自分の人生を自分の好きにできないのはおかしいとも思えてしまうのだ。
 人はそれを『わがまま』と言い『自分勝手』と称する。そして周囲に迎合するよう求めるのだ。それが今までの羽柴には鬱陶しくて仕方がなかったが、子どもの自分が我を張っても無駄なのだという理解のもと、必死に口をつぐみ、己の中で暴れる感情を抑え込んで、義務教育の時間をやり過ごしたのだった。
 そうして迎えた高校生活。羽柴は親の許可を得て一人暮らしを始めた。忙しくあちこち動き回っている両親はそもそも家にいることが少ないのだが、その分、息子に対する信頼は厚い。日頃なかなか示せない愛情を、息子の望みを叶えることで示そうという気持ちもあるのかもしれない。とにかく学校から徒歩でも10分かからない場所で暮らすようになった。
 固定電話とテレビの代わりに携帯電話とパソコンを持ち、羽柴当麻は自由気ままな暮らしを始める。学校にはもちろん行くが、宵っ張りな羽柴は始業時間に間に合うように起きることができず、自他共に認める遅刻の常習犯となっていく。俺ってそういうキャラだったのか、と自分でも笑ってしまったくらいだ。
 伊達征士の姿は、そんな高校1年の朝に2度ほど目にした。遅刻ぎりぎりに校門に飛び込んだ数度のうちの2度だ。彼は風紀委員で、登校時の服装チェックや遅刻者の確認をしていた。言葉を交わした記憶はない。ただ、「自分も金髪じゃん?」というのと、「でも似合ってるかも」というのが、朝のきわどい状況で羽柴の抱いた印象だった。
 その後、少しずつ得た情報では、品行方正、成績優秀、スポーツも得意で旧家の跡取りとのことだった。それであの容姿とはなんて嫌みな奴、と思わなかったといえば嘘になる。
 ところが気づけば目で追っていた。外見が目立つからだと思ってきたが、個人的なやり取りが増えるうちにそれだけではなかったのだと気がついた。
 ふぅ、と、もう一度息を吐く。冷凍食品をしまい、野菜をしまい、バターと久しぶりに買った果汁100パーセントのオレンジジュースを冷蔵庫に収めてから、羽柴は洗面所に向かう。汗を吸ったシャツを着替え、手と顔を洗い、うがいをしてさっぱりとする。深呼吸を一つ、そして、
「よしっ」
 と鏡の前で気合いを入れた。
 部屋に戻ってぐるりと見回す。今週は毎日少しずつ部屋を片付けた。積み上がっていた本は箱詰めして台所の隅に置いた。机の上も綺麗にしたし、衣類も全てきちんとしまった。リネン類の洗濯も終わっているし、棚の埃は昨日のうちにしっかり払った。畳の部屋は掃き掃除、窓ガラスは拭き掃除、シンクも磨き上げてピカピカだ。敷き布団は日曜に干したきりだが、今週は天気がよかったので問題ないだろう。トイレ掃除もしたし、風呂も洗ったし、伊達用の座布団も用意した。
『驚くといいな』
 散らかり放題の部屋しか見たことがない伊達は、この部屋を見てどんな顔をするだろう。
『やればできるんだって』
 威張ってみせたいところだが、それを言えばきっと「いつもこうしておけ」と返されるだろう。そんな様子も容易に想像できて、羽柴の胸は小さく鳴るのだ。
 伊達を初めて玄関の外に見た日のことを、羽柴は今でも鮮明に覚えている。新学期の初日、すっかり寝過ごしてそのまま休んでしまった羽柴のもとに、逃げ出したくなるような仏頂面で彼は現れた。
「伊達? なんで?」
「新学期早々、休む者がいるからだろう」
 初めての会話はこんなものだった。今思うと少々残念である。
 その日の配布物を取り出す伊達に、
「一緒のクラスなのか?」
 と尋ねたところ、
「他所のクラスからわざわざ来ないだろうが」
 と、半ば睨むように返された。さすがに少し怖いと思ったが、初めて間近に目にする表情に心が躍ったのも確かだった。だからだろうか。次の言葉は思いがけずすんなりと出た。
「ごめん。…ありがと」
 ぎこちなかったかもしれないが、笑顔を向けることもできたと思う。
 それは伊達にとって予想外だったようで、一瞬、わずかに目を瞠って羽柴を眺め、それから落ち着いた口調で淡々と告げた。
「すまないと思うのならばきちんと登校しろ。ありがたいと思うのならば恩を返せるようになれ。一人暮らしは大変なこともあるだろうが、それに胡座をかくようではこの先も知れたものだ。助けが欲しいときには言え。私にできることなら手を貸そう」
 わーーーーっと叫びたい衝動に駆られたのを懸命に押し止めた。約1年考えていた以上に、彼は羽柴好みの人間に思えたのだ。
 深く頷いてもう一度礼を述べ、道路まで出て伊達の背中を見送った。差し伸べられた手を放してなるものかと強く思った。
 翌朝、始業のチャイムより少し早く学校の正門前に着いた羽柴は、風紀委員の中に伊達を見つけて歩み寄る。
「おはようございます」
 やや上目遣いに声をかけると、伊達は微かに目元を和らげたように見えた。
「おはよう。ちゃんと来たな」
 へへへ、と笑ってから、
「2年4組だよな」
 と確認する。首肯する伊達に手を振って、羽柴は新しいクラスへと向かった。
 以来、伊達は手を貸し続けてくれている。多少は改善されたものの無遅刻無欠席にはほど遠い羽柴にとっては、嫌われないか、怒られないか、見捨てられないかと恐々とする瞬間もあるが、総じて伊達との時間はハッピーだ。クラスの中にいれば互いに別のクラスメイトと話すこともあったが、休み時間に、教室の移動時に、下校の道に、自然と肩を並べるようになった。
 そもそもなぜ伊達が羽柴の家へ来たのか。気安く話すようになってから尋ねたところ、実は伊達自身にもよくわからないということが判明した。担任から指名されたらしいが、その指名の理由がわからないと言う。
「伊達が言えば羽柴も納得しそうな気がするから、と言われたのだが」
 どういう意味だ? と尋ねられて、羽柴も答えに窮した。実際にそうだったのだから、担任の目は確かだったとしか言いようがない。羽柴がそれとなく伊達に視線を向けていたことがばれていたのか、それとも責任感があり物怖じしない伊達なら羽柴に言いくるめられることも彼を投げ出すこともしないと思われたのか、確かめるのも気恥ずかしくて確認しないままに過ごしている。
『もう今さらどうでもいいし』
 教師の思惑とは関係なく、二人の距離は短期間にぐっと縮まった。それだけで羽柴には十分嬉しいことだった。
 いったん自宅へ向かった伊達は、日の高いうちに羽柴の部屋へ戻ってきた。家族にも話を通してきたようだ。
「次はこちらへ泊まりに来いと、祖父にも母にも言われたぞ」
 そう言いながら部屋に上がった彼は、羽柴の期待以上の反応を示した。はっきりとした驚きの表情で瞬き、ゆっくり室内を見渡す。
「今日は随分と片付いているな」
「だって、俺が来いって言ったんだし」
 探るような目で見遣る羽柴に、伊達の端整な顔が向けられる。その中で、切れ長の目がすっと細められた。
「心遣い感謝する」
 羽柴はふにゃりと目尻を下げて笑った。

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