Pulse D-2

愛していると囁いて (2)

 夕食までに間があったので宿題を済ませておくことにした。羽柴は「一緒に」と言ったが、相談したり教え合ったりする必要はおそらくない。それは伊達には少し残念に思えたものの、羽柴がそばにいるというだけで気持ちが楽になるような気もした。
 羽柴当麻の名は、おそらく同学年の全生徒が知っている。定期テストの成績上位100名の名が掲示されるためだ。羽柴の名前は常に最初に書かれていて、ここまでの4学期分、誰にもその座を譲らなかった。順位を付ければ必ず1位も2位も出るものだと思っている伊達にも、不動の1位というものが本当にあるのだと感心させた。
 伊達自身、どこかしらに名前は載せられている。羽柴のように目立つ順位ではないが、自分では十分な成績だと思っていた。それが変わったのは、こうして羽柴と話すようになってからだ。目標ができたとでも言えばいいのかもしれない。学業の成績はもちろんのこと、自分とは大きく異なる考え方やものの見方など、羽柴には惹かれるものがあった。
 彼と話せば話すほど、伊達の中には不思議が増えた。理解の範囲を超えたものに対する不愉快さではなく、理解しきれないながらもその存在を興味深く面白く思う。決して褒められたものばかりではない羽柴の生活態度も、合理性と柔軟さを併せ持ったものだと考えれば対処の仕方は自ずと知れた。話す言葉は耳に心地好く、教室では見せない表情を二人きりのときには見せるのに気づいて、柄にもなく心が躍った。
「よしっ、数学終了!」
 窓際の自分の机の上で、羽柴がプリントを顔の前に掲げた。斜め後ろからそれを眺めていると、振り向いた彼がにやりと笑う。
「写す?」
「馬鹿者」
 短く返すと、ひひひっ、と変な笑い方をして姿勢を戻す。こういうふざけ方にも慣れて、実はこっそり笑うようになった自分にも伊達は驚くのだ。
 3教科分の課題を終える頃には夏の太陽も傾き、1階の羽柴の部屋は隣家の影に入る。暗くなった手元から目を上げると、羽柴はシャーペンを持ったままの手で頬杖をつき、一心に空を見つめていた。何をそんなに真剣に見ているのか気になる一方で、真摯な眼差しと細い顎のラインから視線を外せない。そうしてこちらこそ凝視しているのを感じたのか、ふっと背筋を伸ばした羽柴が伊達へと顔を向けた。視線を合わせ、一呼吸おいてから口を開く。
「腹減らねぇ?」
「……あぁ、そうだな」
 答えてから、思わず脱力して伊達は笑った。
「ん? 何だよ?」
 怪訝そうに眉根を寄せる羽柴に何でもないと首を振り、広げていたノートを閉じた。代わりに記憶という名の手帳を広げ、たった今、静かに胸の内に湧いた想いを書き付けた。
 立ち上がった羽柴がキッチンに入り明かりをつける。
「伊達は料理とか全然しない?」
「しないな。というよりも、何もさせてもらえない」
 ダイニングキッチンと和室とを隔てるガラス戸のそばまで来て答えると、
「あー、なんかそれ、わかる」
 と羽柴は笑う。母、姉、妹と、女性陣が台所を支配する様子が目に浮かぶようだと言う。
「じゃあ、飯できるまで待っててくれ――って言っても、することないか」
 本でも読んでる? と尋ねられて、すかさず伊達は口にする。
「見ていても構わないか?」
 何を、と言いかけて、
「えっ、俺? やだよ、緊張すんだろ」
 と羽柴は本気で嫌そうな顔をした
「緊張? 羽柴が? 面白いことを言う」
「お前なぁ」
 顔をしかめたまま、それでも羽柴は伊達を手招く。台所へ入っていく伊達に椅子を勧め、ダイニングテーブルの上に新聞紙とさつまいもと皮剥き器を置いた。
「でも伊達って器用そうだから、やれば結構、料理もうまくなるんじゃないかな」
 だからまずは皮剥きをしてくれ、と伊達の目を覗き込んだ。
 さつまいもと聞いても焼き芋ぐらいしか思い浮かばない伊達は、左手に芋を、右手に皮剥き器を持ってはみるものの、これで皮が剥けるのか、皮を剥く必要があるのか、などと考えてそのまま動きを止めてしまう。面白そうに3秒ほどそれを見つめてから、羽柴は伊達の背後に回り彼の両手に手を添えた。
「皮は剥かなくても食べられるけどさ、剥いたほうが綺麗にできあがる。今日はこれでサラダを作るからな」
 言いながら一筋、皮を削ぎ落とす。わかったか? と言いたげにもう一度間近に目を合わせられ、伊達は息を詰めて小さく頷いた。
 大鍋に湯を沸かし、その間に野菜類を切っていく。トマト、ナス、セロリ、ブロッコリーと次々処理する羽柴を見ても、何を作ろうとしているのか伊達にはわからない。そうしながら伊達の手元をちらりと見遣り、
「これも外側の茶色いのだけ剥いちゃって」
 と、玉葱を2つテーブルに置く。薄黄色いさつまいもと皮剥き器は羽柴の手に移り、すぐにまた包丁を扱う音が聞こえてくる。
 玉葱を剥き終わる頃には湯が沸き上がり、3分の1程度を別の鍋に移して羽柴は蓋をする。大鍋には乾麺らしきものが投入され、玉葱と入れ替わりに刻んださつまいもの入った器を差し出される。
「電子レンジは使えるよな?」
「おそらく」
 自宅のものしか使ったことはないが、見ればわかるだろうと器を受け取った。
「3分ぐらいかな」
 セットして、大丈夫かと見つめていると、
「缶開けて、ここで水切って」
 と声が掛かる。コーンの缶詰だった。小さなボウルと金属製のざるを重ねて、ホールコーンをざるにあける。その左斜め前方で羽柴は炒めものを始める。間もなく電子レンジが調理の終了を告げた。
「うん、OK。軽く潰して」
 固さをみてから木べらを渡される。
「軽く…?」
 そう言われても伊達には加減が全くわからない。それに気づいたのか、再び伊達の右手ごと木べらを掴んで、これくらい、と部分的に芋を砕いてみせた。口元に笑みを浮かべたまま羽柴はフライパンへと向き直る。気づけばいい匂いが漂い始めていた。
 大鍋、小鍋、フライパン、それぞれの様子を見てから冷蔵庫を開ける。冷蔵室からマヨネーズを、冷凍室から袋を2つ取り出して、そのうちの1つをテーブルに置く。
「そしたら芋とコーンを軽く混ぜて」
「軽く…」
 ぷっ、と羽柴が吹き出した。伊達もさすがに苦笑する。
「あとは伊達の好きな感じでマヨネーズも入れて混ぜて」
 空いたボウルとざるが持ち上げられる。ざっとコーン缶の残り汁がフライパンに流し込まれる。さらに香りが立って、伊達にも空腹を感じさせる。そうしておいて振り返り、少しの塩とたっぷりの黒こしょうをさつまいもに振りかける羽柴の手を、まじまじと見ている自分に気づいて伊達はあたふたと目をそらした。
「よし、旨い。じゃ、最後にこれは4分」
 言われて電子レンジに入れたのは、昼に買ってきた冷凍食品だった。それが香ばしく温まるまでに羽柴はパスタとスープを仕上げ、伊達は野菜くずを片付けてテーブルを準備する。全ての皿を並べ終えて腰掛けると、少し照れくさそうに視線を合わせて、
「こんな感じで。じゃ、いただきます」
 と羽柴は先に食べ始めた。その表情がまた伊達の胸を熱くした。
 トマトソースのパスタは豚挽肉の旨味がナスに染み込んでいて、想像をはるかに上回る美味しさだった。若鶏の香草焼きにはゆでたブロッコリーと炒めたセロリが添えられ、辛みの利いたセロリが香草とは違うアクセントになる。オニオンスープは強すぎないコンソメ味で仕上げられ、伊達も手をかけたさつまいもとコーンのサラダには細かく砕いた冷凍パセリが振りかけられて彩りをよくしていた。
「どう? 口に合う?」
 おそるおそるという感じで尋ねられ、伊達は一つ深く頷く。
「幸せすぎて胸が詰まりそうだ」
「大げさだって」
 笑って応える羽柴に、決してそんなことはないと首を振る。
「本当に、胸が一杯なのだ」
 こんなことは初めてだった。あまり感情の起伏は激しくないと自負していたので、自分が感動しているのだと気づくのに時間がかかった。調理の手際が良くて驚いたことも、できあがった料理が驚くくらい口に合ったことも含めて、全てが嬉しくてたまらなくて、こんなにも胸が高鳴る。それが不思議でもあり楽しくもある。そんな状態を伊達はうまく言葉にできず、ただ「嬉しいのだ」と繰り返した。
 箸を手にしたまま、テーブルを挟んだ向かい側で羽柴が細く息を吐く。ゆっくりと瞬いて、泣きそうにも見える目をして笑う。
「よかった。俺、多分さ、伊達を喜ばせたかったんだ」
 堪えきれずに目線を下げ、静かに、はっきりと、羽柴は言葉を紡ぐ。
「いっつも迷惑かけてるけど、すごく感謝もしてる。伊達から見れば駄目で腹立たしいところが俺にはいっぱいあるんだろうけど、嫌われたくないとも思ってる。だけど、無理して自分を変えるのもなんか違う気がして、結局、伊達に甘えることになってて、さすがに甘えっぱなしは格好悪いと思った。俺もさ、伊達にいいとこ見せたいし、俺と一緒にいるのも悪くないって思ってほしいんだ」
 上げられた目は力強さを増し、まっすぐに伊達を見た。
「飯でお前を釣れるとは思ってないけど、お前が嬉しいと思ったんならその気持ちを担保にしてくれ。この先、俺といても損はしないって考えてもらいたいんだ」
 ちょっと変な言い方かもしれないけど、と肩をすくめてみせた羽柴に、伊達はやはり深く頷いた。
「承知した。この担保で引き受けておく」
 その答えに羽柴がまた笑う。これで損をするなど余程のことがない限りあり得ない。そう思いながら伊達も笑みを返す。
「冷めないうちに食ってくれ」
 再開された食事は、この上なく幸福な味に満ちていた。

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