Pulse D-2

夕暮れ時には僕をみつけて(2)

 征士は今、築10年ほどのマンションに住んでいる。ほぼ新築の頃にその一室を購入したという。いちいち内部に連絡しないと建物に入れないのは当麻としては面倒なのだが、セキュリティの上からは仕方がない。機械を通して短いやり取りをするのも、征士が相手だとなんとなく嬉しい。しょうがねえなぁと自分でも思う。
 手土産はワインか日本酒と決めている。食事に合わせやすいからだ。どちらかというと日本酒が好きだという征士も、当麻の選ぶワインを楽しんでくれるようになった。それが当麻には嬉しい。
 ただ、この頃ちょっと酒に酔いやすくなったかな、と自分では思う。征士の家で安心して飲んでいるためとも考えられるが、饒舌になったりすぐに眠くなったりといった以前からの酔いの症状に加え、妙に気が大きくなるというか、思ってもみなかったことを不意にぱっとしてみたりすることが増えたような気がするのだ。
『あのときもなー…』
 喉が渇いて目覚めたベッドの上でぼんやりと思い出したのは、冬のはじめの月夜のことだった。酔いを醒まそうとベランダへ出た当麻は、空気の清澄さと夜空の美しさと、それでいて寒さを感じさせない大気の心地好さとに、思わず安堵の息を吐いた。大丈夫か、と静かに背後から掛けられた声がまた耳に優しくて、胸の奥のほうで何かが疼くのを感じた。もっと若ければそれは「ときめき」とでも表現できるものだったかもしれないが、そういうかわいらしい感情は学生時代に放り投げてそれっきり、というつもりでいたので、当麻は深く考えずにやりすごした。
「平気。なんか気持ちいい酔い方してるから大丈夫」
 明るい月を眺めながら答え、ふっとその美しさを征士のようだと思った。主張しすぎない美しさとでもいうのか、それだけを見れば他を圧倒する要素を持っているのに、決して出しゃばらず静かにそこにあるような、そんな雰囲気を征士も持っているのだと感じた。
 そして、それは安定感だ、と確かに思った。仕事にしても性格にしても、征士はとても安定していた。健康に気を遣い、人間関係も良好で、それまで当麻の周囲にいた人々とは明らかに違う安心感をもたらしている存在だった。それを少しだけ揺るがしてみたいと思ったのかもしれない。
「月が綺麗ですね」
 征士が並び立ったのを確認してから当麻は口にする。征士も同様に空を見上げた。
「そうだな」
 その瞬間、素早く横を向いた当麻は、さっと征士からキスをかすめ取った。何事かと見返してくる目にいたずらっぽく笑う。
「夏目漱石が『I love you』を『月が綺麗ですね』とでも訳しておけって言ったなんて話があるだろ。まあ、作り話だとも言われてるけどな」
 征士が腕を組む。僅かに首を傾げる。
「お前にはそういう嗜好があったのか」
「いや、全然考えたことなかった」
 当麻は即答し、再び月に目を戻した。
「でもまあ、いいかなーって」
 月はこんな短時間で姿を変えるわけもなく、冴え冴えと涼しげな光で空と下界とを照らし続けていた。その光に、酔いも、自分の心の中の卑しさのようなものも、全て浄められていくようで、当麻は自然と浮かぶ笑みをそのままに、この頃ずっと感じていたことを口にした。
「俺、ここんとこ役所でいろいろ世話になってるだろ。で、征士はさ、一見取っ付きにくいけど、親切で誠実で前向きで建設的でとても信用できる人だって、あっちこっちで似たようなこといっぱい言われた。あぁそうだな、って、聞くたびに思ったし、そのたびに嬉しかった」
 そうなのか? と尋ねてくる声にしっかりと頷く。
「俺さ、自分の評価が世間にも支持されるの、すごく嬉しかったんだ。そうだろう、俺の言ってることは正しいだろうって、得意になって、俺は何でも知ってるんだってことを見せつけてやりたくてさ。……でもな、お前のこと聞いて嬉しかったのは、俺の思ったとおりだったからじゃない。もっと単純な話だ。自分の好きなものを他人にも誉めてもらえたのが、純粋に嬉しかったんだ」
 ふうっと息を吐いて視線を下げた。
「お前がそう思ってくれるのなら私も嬉しい。当麻の良さも、皆にもっとずっと深くわかってもらいたいものだと思う」
 間近に聞こえる声は、やはり深く当麻の胸に響く。そして、ゆったりと抱き締められて、その腕を温かく感じた。
 その夜、そのまま何の抵抗もなくキスを繰り返し、征士のベッドの上で素肌を重ねた。当麻の仕掛けた2人の関係性の変化に対し、征士は全く動じなかった。
『だから俺は今でも安心したままだ』
 布団の中で姿勢を変え、当麻はすぐ隣に眠る征士の様子を窺う。長めの前髪が目元を隠すのを、当麻は少し残念に思う。だが、その目でまともに見られると気圧されると感じる人が少なくないことも知っていた。
『そんなことないのにな』
 指先でそっと髪をかき上げると、征士が僅かに身じろいだ。起こしては悪いと思う反面、目を開けて自分を見てほしいとも感じて、当麻は苦笑しながらさらに征士の髪をもてあそぶ。そうするうちに睫が揺れ、薄く瞼が上げられた。
『やっぱりこのほうがいい』
 薄闇の中で視線を合わせる。すでにすっきりと目線を定めた征士が、ゆっくり瞬いて問うような雰囲気を見せた。
「なんか目が覚めちゃって」
 答えながら当麻は体を起こす。征士の向こう側にあるナイトテーブルへ手を伸ばし、保温ボトルを取る。水を飲むと、少し喉が潤って話しやすくなった気がした。
「あのさ」
 同様に身を起こした征士にボトルを渡す。
「何だ」
 受け取って一口飲み、征士が目を向けてくる。
「お前ってさ、俺のこと熱烈に愛してるとか、そういうんじゃないよな、多分。俺もだけど」
 そして続いた言葉に、やや間を取って考える様子を見せた。
「まあ、そうかもしれん」
「でもこうやって寝ちゃったりするじゃん?」
「不道徳か?」
 あはは、と自然に笑いが湧いた。
「いまどき言わないって、そういうこと。じゃなくてさ、なんかこう、不思議なわけ」
 当麻もしばし考える。どう言えば、このふわふわとした感じを伝えることができるのだろうか。この夜の真ん中で感じたささやかな感情を表現することができるのだろうか。
「お前が普通に、何でもないみたいに俺を受け止めたっていうか、受け入れたっていうか、そういうのがすげぇなって思ったし、面白いとも思った。で、お前のキャパシティみたいなものがどこまであるんだか知りたいような、知りたくないような……例えば、俺じゃなくてもやっぱり普通に受け入れたりするのかな、とか」
 征士はじっと当麻を見つめていたが、当麻の声が途切れると同時にそこから目を逸らし、手にしたボトルをテーブルへ戻して言った。
「それは、不安だということか」
「不安ってのとは違うな。なんか興味深いっていうか」
「私は研究対象なのか?」
 声に不満そうな響きがこもった。当麻はまた笑ってしまう。
「あはは。悪い、そういうつもりはない」
 そうじゃなくて、と笑いながら言葉を探す。
「興味深いっていうのは、ほんとにそのままの意味だって。俺にとって征士は面白くて、気持ちが引きつけられるんだ。征士が何を考えてるのか、何をやろうとしてるのか、何に興味を感じてるのか、そういうことに関心を持たずにいられない。そんな感じ」
 わかる? と顔を覗き込むと、ふむ、と一度頷いてから征士も返した。
「それなら私にとっての当麻も同じだ。次に何をしでかすかわからない緊張感と、打てば響くような反応の確かさに、私の心も踊るのだ。こういうのはあまりない経験で、私自身、不思議に思っている」
「俺、何しでかすかわかんない?」
「わからんな」
 その言いようにやはり当麻は笑う。普通に考えれば失礼な物言いの筈なのに、征士に言われると嫌な気がしない。それは多分、彼に対する信頼と常に感じている安心感からくるものだろうと思う。そして、心が躍ると言うとおり、当麻のそうした質を征士が肯定的に受け止めているのがわかるから、さらにその先を聞き出したくもなるのだ。
「そういう奴って嫌じゃないか? 付き合いにくかったりしない?」
 そんなふうに言われたことなら、当麻には少なからず経験があった。別にそれを気にしたことはなかったが、征士がどう感じるのかは知りたい気がした。
「確かに付き合いにくいと感じる相手もいる。価値観や倫理観の合わない相手は特にそうだろう。だが、当麻は基本的に心根が優しく、正しい。私はそう感じている。だからお前とは気持ちよく過ごせる」
 伊達さんそれは買いかぶりですよ、とでも軽い調子で言ってしまいたかった。こんなことを真顔で言える奴がいるとは思わなかった。けれど、言われた言葉もその口調も表情も、胸の中をほかほかとあたためて、当麻はそのあたたかさを黙って感じておくことにする。
「それに、お前に予想を覆されるのが、恐らく私は嫌いではない。私の考えなど飛び越えて、いつでもお前はその斜め上をいく。それが妙に楽しいのだ」
「斜め上?! お前が言うと新鮮!」
「そうか?」
 今度は笑い合って肩を寄せた。
 夜明けまで4時間。もう一度身体を重ねる。
 その熱い酩酊の中、
「月が綺麗な夜にはお前のことを考える」
 と当麻は口にした。瞼の裏に澄んだ夜空が広がっていた。それは、この空を征士にも見せてやりたいと思うほど、月の冴えた美しく清らかな光景だった。そして、
「私は夕暮れ時に考えることが多い。当麻と出会った時間に、またお前に会いたいと、いつでも考える。私が会いたいと思うのも、こうして触れたいと思うのも、お前だからだ、きっと」
 と返された声に、深く安堵の息を吐いて当麻は意識を手放した。

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