Pulse D-2

道程(2)

 さわさわと木々の葉が鳴っていた。雨の音は聞こえないが、濡れた緑の香りが強い。もう少し、もう少しと浅い眠りを引き延ばし、温かい布団と冷たい空気の心地好さ、ふんわりとした眠気とそれを妨げられることのない快適さを楽しんでいた当麻だったが、やがて腹が鳴るのと同時に気がついた。
『あ……朝飯がない』
 二人一緒に一つの布団の中で迎えるはずだった朝。当麻の目覚めを待って、征士が朝食を作ったに違いない朝だが、その征士は不在だ。
 毎年この日は、少し遅めの朝食になる。作るにしても食べに行くにしても、征士はその時の当麻の気分を優先させた。朝から豪勢な食事をとるわけではないので、作るにしても普段と大差ないものになるが、それでも少し違うメニューになるのが楽しみでもあった。それがないのを残念に思う。
「どーすっかなー…」
 上着を羽織って台所へ。少し寒い。温かいものを食べたいが、作るのは面倒だ。冷凍庫の右半分、当麻用に区分けされた場所を漁る。炒飯、唐揚げ、フライドポテトなど、当麻の夜食・間食になる予定の冷凍食品の中からパンケーキを取り出す。ひとまずこれで食いつなぐ。
 食後は自室の掃除をしようと決める。ここだけは板張りに変えた部屋は、いらないメモを処分し、使い終えた書類をしまい、参照した古い本を片づけるだけでこざっぱりとした場所に戻る。書庫は別棟として増築したので部屋にある書棚は一つだけだ。それだけでも以前とは随分異なる。
 書庫に戻す本を手に、短い渡り廊下を行く。大きめの窓から外が見えた。雨はやんだらしい。曇り空の下に、地面に何本も刺さった棒と白く丈の低いアーチ状のものが並んでいる。野菜の茎を支える支柱と、虫除けネットを張った、いわゆるトンネル栽培の最中の畑。征士こだわりの家庭菜園だ。
「そうだった」
 畑の状態を見ておくんだったと思い出し、すぐに書庫を後にした。
 どこまでを庭と言うべきか。広い敷地の半分は樹木に支配され、切り拓いた場所に木造家屋を移築し、書庫を建て、車庫を造り、畑を整備した。通りからは家も畑も見えず、まるで隠れ家だねと古い友人に言わしめた。征士の三十一歳の誕生日に当麻が贈った土地だった。
 黒長靴に厚手のゴム手袋。日差しの強いときには麦わら帽子。スタイリッシュな自分を目指していた頃にはあり得なかった姿だが、征士も同じ格好をするのを見ればそちらのほうが余程笑える。白いネットに泥はねはあったものの、風雨で畑が荒らされた様子はない。
 一安心したところで顔を上げる。ネイビーブルーの自家用車が入ってくる。新しく買った車はエンジン音がせず、それに慣れるのに少しかかった。
「おかえり」
 車を降りた征士に声を掛ける。
「遅くなってすまない。誕生日おめでとう」
 小さな花束を差し出す背後で、ふいに細く雲が切れた。
『光を背負って帰ってきやがった』
 手袋を外し、花束を受け取る。こういうのは久しぶりかも、と思っているところへ、もう一つ小さな紙袋を渡された。中身を確かめてにやりとする。
『今年の甘味はおはぎか』
 そういえばそんなこと言ったっけ。食べたいと話したのを征士は覚えていたらしい。
「サンキュ。で、今日はこれからどうする?」
 まだ半日以上残っている。連休後半も残っている。
「台風の進路は逸れたらしい。希望があれば、買い物でもドライブでも。お前はどうしたい?」
 眼差しがやさしい。それはそのまま当麻にも伝染する。
「じゃあ、まずはひと休み。それから一緒に買い物行って、食いたいもんを買ってこよう。…夜は長いし?」
 おどけて言えば、小さな笑いに続いて静かなキスが寄せられた。
 嵐もあれば晴れもある。その全てを、この先も二人で越えていけるように。
 一つ年を重ねるごとにさらに深まる想いを胸に、玄関までの短い距離を肩を寄せて歩いた。

掲載日:2022.05.15(初出:2020.10.24 オンライン企画/2020.12.25発行 アンソロジー『love me, I love you』収載)

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