真夜中の君を
何か夢を見たのだろうか。
瞼の裏に深い藍色の印象が、胸の中に微かな人恋しさが、波紋のように広がり緩やかに去っていった。
闇の中で一呼吸。その間に逡巡し、結局、当麻は薄目を開けた。瞬きを三度。室内に待機中の電子機器の小さな明かりがいくつか見えてはいたが、カーテンの隙間からの屋外の明かりは無いに等しい。腕を上げ、スマートウォッチに目を移す。零時五十三分。普段なら起きていてもおかしくない時刻だと頭の隅で思う一方、早寝した理由の頭痛がすっかり消えていることに安堵を覚えた。
布団に潜り直し、耳を澄ます。車の行き過ぎる音、時折強く吹く風の音、隣室で小さく椅子のきしむ音。
『まだ起きてたのか』
毎日、規則正しく早寝早起きの征士にしては珍しい。仕事だろうか。それとも個人的に何かを楽しんでいるのだろうか。万が一にも、身内に不幸があってこんな時間に連絡している、なんてことでなければいいが。
つらつらと考えるうちに、別の音が聞こえてきた。多分、征士の声だろうと思うが、低く短い言葉が多く、内容は全くわからない。
『忙しいんだな』
自分よりも征士のほうが多忙にしていると、なんとなく嫌な気持ちになる。二人で過ごすようになってから時折抱く思い。その理由を一言で言えば、嫉妬だ。
征士が自分ではなく他の誰かに目を向けることも、征士のほうがより多く世の中に必要とされているのではと感じることも、寄せられる信頼や稼ぐ金額の大きさや彼の周りで行き交う情報の質や量も、いつの間にかやけに気にして密かに苛立っていたりする。様々な方向性の、一つひとつはとても小さな嫉妬。その感情の意味を、今は当麻も知っている。つまり、人としても、男としても、負けたくないのだ。
最も身近なライバル、そんな言葉では言い尽くせない相手だが、初めて会ったときから確かにそういう側面もあった。お互いに長所も短所も持ち合わせながら、尊敬もし、理解もし、総合的に好きが嫌いを上回った。
『むしろ圧勝』
考えれば考えるほど痛感する。こういうのを惚れるというのだと。
気づくと声はやんでいた。少し眠っていたらしい。あらためて意識を隣室に向ける。移動する気配。ピッと高い電子音は、自分の部屋でも聞き慣れた音だからわかる。室内の明かりが消されたのだ。
静寂がおりてくる。対照的に胸がざわめく。目覚めとともに感じた一瞬の寂しさが蘇り、僅かに迷ってから当麻は体を起こした。
『週末の夜だ』
ベッドをおりて部屋を出る。隣のドアを軽くノック。ほどなく、どうぞ、と声が返る。
「夜這いとは嬉しいな」
「そういうんじゃないって」
顔を見るなり言ってくるのに、苦笑しながら当麻は応える。小さなフットライトが光を生んで、室内はほんのりと明るさを保つ。夜間の災害への備えだ。
「電話してた? 仕事か」
ベッドに近づきながら問う当麻に、征士は半身を起こしてベッドの右半分を空けた。
「すまない、起こしたか。夜勤組でトラブルがあったらしくてな」
「大丈夫なのか?」
「問題ない。優秀なスタッフが揃っている」
静かな笑みとともに布団へと招かれた。
困難に直面したときの征士のあり方が当麻は気に入っている。細かいことに動じず、どっしりと構えているほうが彼には似合う。自分も、そしておそらく当事者たちも、安心する。
片肘を突き、布団に収まった当麻を覗き込むようにしながら征士が口にする。
「当麻こそ、具合でも悪かったのか?」
当麻が早くから眠っていたのを言っているらしい。征士の帰宅自体はそれほど遅くなかったのだと知る。
「いや、寝溜めしてただけ」
応えてにやりとする。どうせ真実はもう過去のことだ。
「そうか。それならいいのだが」
追及する代わりに手を伸ばす。征士の指が、当麻の髪を、頬を、柔らかく撫で過ぎた。それを追うように唇が触れる。
真夜中で、静かで、暑くもなく寒くもなく、触れ合える距離に上機嫌の征士がいる。
これだけでもう十分とすら思う。けれど、続きを求める手は拒まない。機嫌がいいのはこちらも同じ。寂しさはとっくに消えている。
ただし、キスの途中で左手首に目を向けられて、反射的に腕を取り返そうとした。
「はずすなよ、記録が狂う」
「当たると冷たい。気も遣う」
スマートウォッチの話だ。
手首を掴んだまま、それに、と続ける。
「デバイスよりもお前のほうが覚えているのではないか?」
「いや、まあ、そうだけど、正確な数値までは把握できねえだろ、さすがに」
眉根を寄せて至極当たり前のことを言えば、
「当麻は完璧なのだと思っているからな」
と、征士はさらりと告げる。
「嘘つけよ」
「嘘はつかん」
これまでにも数え切れないほど繰り返した言い方に、目を見合わせて小さく笑った。
「ま、いいけど」
何かの拍子に壊れて困るのは俺だし、と思う間に手首が涼しくなった。そこに口づけられ、照れくささとくすぐったさとでさらに笑いそうになりながら、一方で言葉や行為の優しさに胸が詰まるのを感じた。
『お前がいてくれてよかった』
金の髪を抱き寄せて、耳元に囁く。人恋しさを感じる夜には、特に強くそう思う。
「同じだ、私も」
胸元に征士の声。低いけれどはっきりと、鼓膜を震わせ肌に馴染む。もしも言葉で肌を彩れるなら、自分の胸には無数の花が咲くだろう。そんな花なら、夢でもいいから見てみたい。
ヘッドボードに置かれた時計がアラームを鳴らすまで数時間。知り尽くした腕に静かに身を委ねた。
掲載日:2022.05.15(初出:2021.05.22 鎧伝のオンリー2021春 無料配布)