Pulse D-2

Wie schmeckt es? (1)

この味、その味、どんな味?


『うん、でも、たまには違うことしてみようかなって思ってさ…』
 あんなこと言わなければよかったかも。
 小さな後悔を胸に抱きながら、輝一は左側にあるデジタル時計を振り仰いだ。
 改札を出てすぐのバスロータリーはいつも通りにせわしなかったが、そこに今日は、待ち合わせや待ち伏せらしき人の群も加わって、一層の混雑を見せている。
 すらりと立つ小さな時計塔とそれを丸く囲むシンプルな柵は、駅への出入りをする人を待つにはもってこいで、夕から夜へと近づくにつれその人待ち顔の姿は数を増しているように思われた。
 はあっ、と吐いた息が、即座に白く凍って流れていく。
 寒いのは苦手じゃないけれど、頬と耳とがすこし冷たい。
 時間に正確な彼が来ないから、ほんの五分が永遠みたい。
 いつも通り、約束の時刻よりやや早めに来てしまったことも手伝って、他よりも薄着の輝一は珍しく鼻をすすり上げる。
「まだ二分…」
 その拍子にもう一度時計を見遣るが、さっき見た時から二分しか経っていなかった。
「うーん…」
 マフラーを巻き直し、軽く柵に腰かけるようにしていたのもやめる。同じタイミングですぐ隣にいた女子高生が立ち上がり、改札を抜けてきた彼氏らしい高校生に歩み寄った。嬉しそうに手にした包みを渡している。
 ぼんやりそれを眺める輝一の表情が、僅かずつ寂しそうに翳っていく。
『輝二、ほんとに来るのかな?』
 思って小さく目を伏せた。
 昨夜、輝二の携帯に初めて輝一の方から電話をした。どこで何をしてても持ち主を追い回すようにベルを鳴らす携帯電話というものが輝一はあまり好きではなくて、自分では持っていないし他人のにも殆どかけることはない。
 電話は週に一度、輝二が木村家に掛けてきて五分ほど話すのがせいぜい。それすら輝一はとても緊張して待っている。会うのは二週から三週に一回。昼間の数時間を一緒に過ごすだけだ。それ以上の干渉は、せっかくの心地好い関係を崩しそうで、輝一には少し怖かった。
 だから、こんなふうに呼び出して平日の夕方に会おうとするのは、ルール違反のような気がして余計に落ち着かなかった。
 次の電車がホームに入る。自動改札機が忙しく乗車券のチェックを始め、すぐに一つがエラー音を響かせる。驚いて引き返すサラリーマンとむっと眉根を寄せて横へ移動した女性。その女性の大きな荷物の向こうから、彼女たちよりいくぶん小さな輝二の姿が現れ、ようやく輝一にほっと笑みを浮かべさせた。
 改札を抜け、輝二が小走りに駆け寄る。目の前に立っての第一声は、
「ごめん」
 深々と頭を下げて謝罪するのは妙に目立つし気もひける。
「十分遅刻。でもいいよ、来てくれたし」
 少し不安だっただけで、自分は全く怒ってなんかいない。そもそも、待ち合わせに十分遅れるというのは普通一般にはどの程度気にすることなのか、などと考えてみたりもする。その上で輝一が口にすると、輝二はさも当然のように、
「そりゃ来るだろ」
 と返してやはり静かに笑った。
 学校を出るのも予定より遅くなったが実は問題はその後だったと、珍しい遅刻の理由を試しに聞いてみる兄に弟は答える。
「家にまで押しかけられた」
「わっ、やっるー」
 からかう輝一に、冗談じゃないとばかりに輝二は肩を竦める。
「そっちだって貰っただろ?」
「少しは貰ったけど、家まで来る子はいなかったな」
 そう言って輝一は楽しそうに笑った。
 世は天下御免のバレンタインデー。本命も義理もお遊びも取り混ぜて、学校では各種チョコレートが一日じゅう行き交っていた。
 小学生の頃から毎年輝二が大量のチョコをもらっていることは輝一も知っていたし、今年あたりは倍増するだろうとも踏んでいた。下級生からの『こっそり進呈チョコ』が出現するからだ。
 もうひとつ言えば、昨年のホワイトデーに彼は律儀にも、贈り主のわかるものに対しては全てにお返しをしていた。
『それはポイント大アップだって。来年も増えるね』
 冗談半分に輝一は言ったりしたものだが、どうやら本当にそうだったらしい。渡す女の子たちの方もわかっているのか、持ち帰り用の紙袋もいくつかもらったと、輝二は苦笑しながら話した。
「それでも今日はだいぶ断ったんだぞ」
 輝二は兄に言いながら、でも家まで来られたのは多分そのせいだ、とも思う。
 輝一がそういう目に遭わないのは別にもてないからではなく、そこまでしなくても彼が贈り物を受け取るからだろうと輝二は思う。自分は拒むから、相手も受け取らせようとムキになるのだ。
 気持ちには応えられないしお返しもしない。義理はいらないし別にチョコレートが好きなわけでもない。そう言うと、先輩にあたる数人は『ほんのお遊び』『他にあげたい奴もいないし』『記念にとっといて』『チョコ好きな子にあげてもいいから』などと言って押しつけて去り、後輩にあたる女子は一旦は引き下がりつつも後にロッカーやげた箱、机、かばんの中に忍び込ませるという行動に出た。
 もっとも厄介なのが他校生と同学年の女たちで、断れば断るほど徒党を組んで強く言い寄ってきたのだった。
『おかげで遅刻だ』
 どうしていちばん大事な人間を最後まで待たせなければならないのかと憎々しげに思い、輝二は気持ちを輝一へと戻した。
 笑顔のまま、輝一がマフラーを少し上げる。よく見てみれば彼はニットのジャケットを着ていて、これでは風通しが良過ぎるのではないかと輝二を慌てさせた。
「なんでそんな薄着なんだ」
「えっ。いつもと一緒だよ」
「でも寒かっただろ」
 ほんのり赤くなっている鼻や頬に、輝二は目を止めて申し訳なく感じた。自分が遅れたからさらに長く寒い思いをさせたのだ。
「だからよせって言ったのに」
 外で待つんじゃ絶対に寒いからと、近くの店で待つことを輝二は提案していた。ロータリーの向こうに本屋があるから、せめてその中で待ち合わせようと言ったのだ。
 だが輝一はどうしてもこの時計の下がいいと言い張り、絶対に自分が先に行って待っているからとまで言い切ったのだった。
「だって、やってみたかったんだもん」
 輝一は答える。いったい何のためのこだわりなのかと聞きたげな輝二に、曖昧な笑みで応えて問いを封じる。
 言ってもたぶん輝二にはわからないだろうし、恥ずかしいからわかって欲しくもない。だから言わない、と心に決めて、輝一は固く口を結んだ。
 空気を感じたかったのだ。
 好きな相手を待つ彼女たちの暖かで明るい緊張と、相手を見つけて駆け出す時のその胸の鼓動の力強さを。そして、人前では腕を組んで歩くことすらできない自分たちでも、好き合っていていいのだと思わせてくれる元気を分けて欲しかったのだ。
「どこかに入ろう」
 諦めて輝二も話を変える。いよいよ風が冷たくなってきたと、輝一の背を押して歩き始めた。
 駅からすぐのファーストフード店をちらりと覗く。レジに少しの列が出来ていたので素通りする。そうして彼が輝一を案内したのは、一本裏通りへ入った所にある、地下への細い階段を下って辿り着く地味な喫茶店だった。
「なんでこんな店知ってんの?」
 客の少ない店内の、いちばん奥の席へと二人は陣取る。不思議そうに輝一が尋ねると、ちょっと間を置いて輝二はにやっと笑う。
「輝一に無理難題を押しつけられた時に困らないため」
「意地悪だなぁ…」
 輝二の言いように、輝一は少しむくれてみせた。
 本日のおすすめ、となっている紅茶を二つ注文し、小さなテーブルに向かい合って座る。そこは店の構造上カウンターからは完全に死角になる席で、照明の暗さとあいまって、どことなくイケナイ気分になりそうな雰囲気を醸し出していた。
「その下って何着てる?」
 コートを脱いだ輝二が、ジャケットのままの兄を見て言う。見たことのないセーターだなと輝二を見ながらぼんやり考えていた輝一は、咄嗟には問われた意味がわからずに首を傾げた。
「何って──」
 シャツとベストだよ、と上着の前を広げてみせる。
「お前、それ、薄すぎ」
 途端に輝二に言われた。
 街中を歩いているならともかく、風の吹き抜ける開けた場所でじっと人を待っている時の格好じゃないだろうと彼は呆れる。
「脱げ」
「えぇっ!?」
 喫茶店でいきなりストリップ? と輝一は、驚きと笑いと疑念を合わせて口にする。だがその目の前で、莫迦言ってるなよ、と冷たく返す輝二の方が、先に自分のセーターを脱ぎ始めた。
 何だかわからないままに輝一もベストを脱ぐ。すると輝二は自分のセーターを輝一に手渡し、代わりにさっさと兄のベストを着込んだ。
「交換?」
 輝二が頷く。仕方なく輝一も、淡い灰色を帯びた若草色のセーターをさほど厚くない綿のシャツの上からかぶった。
「あったかーい…」
 それは、とても安心する肌触りと温かさだった。あまり寒さを気にしない輝一にも、これはいいな、と思わせる心地よさがあった。
 自分が寒がっていたから貸してくれたのだとようやく気づき、輝一はにこにこしながら顔を上げる。そしてそこに、頬杖をついて満足気に自分を見つめる輝二を見つけ、動揺を抑えるのに必死になった。
「何?」
「やっぱり輝一の方が似合うなと思って」
 色も形も。
 輝二は即答して、また静かに輝一を見続ける。
 たまには違う色の服を着てみようと思って選んだ色だったが、どうにもしっくりこない感じがずっと付きまとっていた。もっとはっきりとした濃い色の方が自分のイメージには合うような気がする。デザインも、シャープなものの方が好きだ。
 輝二はそう思っていたセーターだったが、今、輝一が身に着けたのを見て、やっと気分がすっきりしたと思った。イメージしていたのは自分自身の姿ではなく、輝一の姿だったのだ。
 色も、丸い襟ぐりも、数か所に短く上品に入れられた縄目模様も、輝一の柔和で優しげな印象にこそふさわしく思えた。
「…そう?」
 自分ではわからない。
 輝一は返答に困って短く尋ね、澄まして首を縦に振る輝二の様子にさらに困って視線をテーブルへと落とした。
 頼むからその嬉しそうな顔をやめてくれと、結構切実に願う。恥ずかしいし緊張するし、こっちこそ嬉しくて照れ臭くて目のやり場に困るから。
 会話の途切れたテーブルに、カップが二つ、小さな音と共に置かれる。中身は同じ筈のその二つの、形の違いにまた少し輝二が笑みを深くしたようだった。
 白い湯気とかぐわしい香りが静かに立ちのぼった。



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