Pulse D-2

夕暮れ時には僕をみつけて(1)


夕暮れ時には僕をみつけて

月夜には僕を抱き締めて



 川沿いに細く続くサイクリングロードで、小学生が2人、競って自転車を漕いでいく。夏至の日が川の向こうへ落ちるのを眺めながら、征士はゆっくりと帰途を辿る。
 携帯電話が震えた気がした。取り出すと、メールが届いていた。当麻からだ。
『仕事終わったんだけど、飯行かない?』
 左手に提げた買い物袋に目を落とす。食材を買い込んでしまったのだ。
『作る予定。家に来い』
 短く返すと、すぐに了解した旨の返事が届く。明るいうちに終業とは、当麻にしては珍しいことだ。そう思いながら川原に目を戻し、中学生ぐらいの男子が数名、集まって何かを見下ろしているのに気づく。征士はしばらくその場で見ていたが、いかがわしい状況ではなかったらしく、子どもたちはやがて賑やかに笑いながら去っていった。不審なものが残されていることもなく、征士もその場をあとにする。
 征士が当麻に初めて会ったのもこの近くだった。夕暮れ時に、川原で伸び放題だった草の中にうずくまる男を、高校生と思われる制服姿が遠巻きにしていたのだ。その頃、浮浪者に対する暴力が話題になることも多かったため、まさかと思って近づくと、男は何かをとうとうと語り、学生たちは必死にノートを取っていた。耳を澄まして聞き取ったのは、
「故に!」
 に続く、数学の証明問題と思われるなつかしい言い回しだった。
 ぼさぼさの髪と中途半端に伸びたひげ、よれた服に汚れた手。だが男の声は伸びやかでよどみなく、明晰な意識を持ち合わせているのは間違いないだろう。どういういきさつだかは知らないが、学生の宿題を手伝っているようにしか見えなかった。
「もう暗いから終わりなー」
 彼が告げると、学生たちは立ち上がり、一斉に礼を言って頭を下げた。何か謝礼をしたがる彼らを手を振って払い、男は草の上に横たわる。
「どちらからいらしたのですか。長く放浪しているわけではなさそうですね」
 問いかけた征士に無言のまま見上げてくるその目が、急にとろんと力をなくした。
「市役所の伊達と申します。お困りのことがあれば力になりますよ」
 今度は口元が緊張した。少し唇をとがらせる。
「人生に絶望してます」
「それはお気の毒に。さしあたって私にできそうなことはありますか」
 お互いに嘘か本当かわからないようなことを言って目を合わせる。しっかりと3秒、見合った後、彼はこれでもかというほどに情けない声を出した。
「伊達さん……腹へった……」
「…人生に絶望しても腹は減るのだな」
 結局、その日は征士の家でうどんを食べた。自宅へ連れていくのはどうかとも思ったが、それが一番手っ取り早いとも思えたのだ。おかげでゆっくりと話すこともできた。
 話を聞いて、実はIT系ベンチャーの社長だということを知った。会社はそこそこの業績を維持していたが、本人的にはやりたいことと会社の方向性とが違ってきていたらしい。周囲とも折り合いが悪くなり嫌気がさしていたようだ。いったん仕事の手を止めたらもう何もする気になれず、誰にも見つからないようにと家を出てこの日が5日目。カードを持たずに出たので手持ちの小銭がなくなったところで食事を取れなくなり、それでも帰る気になれずに野宿をしていたという。その後、その会社は人に譲り、彼は新しい組織を立ち上げた。もっと人に優しい社会を作るのだと、なにやら大きなことを言っている。そういう彼を征士は好ましいと思った。
 そうして知り合ってから2週間後、征士は午前中の業務を終えたところで総合案内所から呼び出しを受けた。面会人だという。行ってみると細身の青年が立っている。近づいて笑顔を見て、先日の男だと気づいた。こざっぱりして随分と若く見える。
「立ち直りました」
 おどけてみせるのに苦笑する。
「それは何より。安心しました」
 にっ、と笑う彼とともに食堂へ向かう。一般人立ち入り自由で安くて旨いと評判の食堂は、当麻の好みにも合ったらしい。日替わり定食と特製具だくさんうどんをぺろりと食べきって征士を驚かせた。
 その日、彼は福祉課に用事があったらしい。案内して別れたが、帰りにロビーに下りるとまた彼がいた。
「差し支えなければ、先日のお礼をさせてください。……駄目?」
 顎を引いて上目遣いに向けられる表情がなぜだか憎めない。自分にはできない顔だと征士は思う。
「別に駄目ではないが、礼をされるほどのことでもないだろう。きちんと自分の足で帰ったのだし」
「ま、それはそうだけど、あそこで拾ってもらえなかったら飢え死にしてたかもしれないし、絶望したままだったかもしれないし、うどん、うまかったし」
 あ、そうだ、と言って、右手に持っていた紙袋を持ち上げる。
「服も貸してもらっちゃったし」
 ちゃんとクリーニングに出したよ、と付け加えるのに、
「クリーニングに出すほどの服ではないと思うのだが」
 と返しつつもありがたく受け取っておいた。
 なし崩しに並んで歩き始め、市庁舎近くのレストランに入る。征士の入ったことのない店だった。小綺麗で上品で、料金的には少し高そうな場所だったが、出せないほどではないだろうと思う。そんな気持ちを見て取ったのか、
「お礼なんだからお金の心配はするなよ」
 と当麻が言う。そして、
「いや、そういう訳にはいかない」
 と返した征士は、さらにおかしなことを言われた。
「お礼だし、手付け金でもあるから」
「手付け金? 法に触れることには荷担しないぞ」
「荷担ときたか、おもしれー」
 笑いながらメニューを開く。
「法には触れないって。好き嫌いある? じゃ、適当に頼むな」
 好き嫌いはないという答えに、慣れた様子で一通り注文してから征士に目を戻した。
「そんな大げさなことじゃない。時々でいいから、俺と一緒に飯食ってよ。まだ当分は、ちゃんとした時間にってのは無理かもしれないけど、休日は確保するからさ、そっちの都合がよければ付き合ってほしいんだ。あんたと食べると飯がうまい」
 声は明るかったが目は笑っていなかった。むしろ、泣き出しそうな目だと征士には思えた。先日聞いた話が脳裏をかすめる。まだ解決していないことがいろいろとあるのかもしれない。
「食事ぐらい構わんが、それでそちらのためになるのか? 私は、仲良しごっこは得意ではない。仕事の範囲で力になれることがあれば協力は惜しまないが、個人的にできることは限られる。一緒にいて特に楽しい人間とも思わん」
 今ひとつ、何を望まれているのかが理解できなかった。言葉どおり、一緒に食事をとるくらい構わなかったが、なぜ自分に対してそれを望むのかがわからなかった。出会ってからここまで、別段、楽しい会話などがあったわけでもない。何か裏があるのかと勘繰る自分にも気づいて征士は口をつぐむ。
 うーん…と低く唸ってから、当麻は眉根を寄せ唇を僅かに尖らせた。
「俺、社長だよ? IQ250だよ? 金持ってるし頭もいいし、見た目だってそこそこイケてんだろ? 飯代は俺が出すし、不便な場所まで呼び出すつもりはないし、仕事の愚痴とか聞かせたりしないよ?」
 言ってから頬を膨らませ、鼻の頭に皺を寄せるようにして渋面を作ってみせる。
「そういう話をしているのではない。人生に絶望したうえで飢え死にしそうになっていた人間は、それなりに切羽詰まった状態にあったはずだ。あなたはそこから立ち直ったと言ったが、普段の生活と全く関係のない人間と食事をしたがるのは現実から逃げ出したいという気持ちがあるからではないのか」
「逃げたっていいじゃん」
「もちろん構わん」
「えっ、いいんだ?」
 ぱっと表情を変えた当麻に、自分の勘繰りは無用なものだったのだと悟ったことを征士は今でも覚えている。同時に何が気になっていたのかも理解した。
「構わんが、それをそちらの勝手にされるのは気に入らん。金を出すだの場所を選ぶだの、気を遣ってくれるのはありがたいが、こちらにとってはそれでは雇われているのと変わらん。こちらこそ気を遣う」
 望まれて悪い気はしないが、だからといって相手の言うがままに対応していくのはフェアではないと感じたのだ。
 当麻が再び眉根を寄せる。じっと征士を見て、しぶしぶといった感じで口を開く。
「んー…じゃあさ――」
 運ばれてきた料理がテーブルに置かれる間、当麻は言葉を切った。
「――俺と友達になってくれる?」
 そして、あまり口を開かずに早口に言ってから、左手で目元を覆う。
「なんかこういうの恥ずかしくない? 小学生みたいじゃねえ?」
「小学生でも言わないだろう」
「だよなー。俺、言ったことねーよ」
 あー恥ずかし…とテーブルに顔を伏せた彼を見て、征士は心が軽くなるような気がした。
「だが、そう言ってくれたほうがありがたい」
 顔を上げた当麻と視線を合わせると、自然と笑みが浮かんだ。何度も瞬く彼のまっすぐな視線を心地好く思った。
 以来、1年ほどの付き合いが続いている。この半年ほどは2週に1回の割合で会っていた。今日のように突然連絡が来ることもあれば、前もって連絡を取り合い外で食事をすることもある。他に友人はいないのかと言われそうだが、征士も当麻もそれなりに知人も友人もいれば彼らとの付き合いもあるので、決して互いを束縛するようなことはなかった。
 ただ、その間、どうしたわけか一線を越えた関係にまで達してしまった。そのときのことを思い出しそうになって征士は頭を振る。
『帰り道に考えるようなことか』
 見上げた空に一番星が輝いていた。気の早いことだと思いつつ、川沿いの道を離れた。

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