Pulse D-2

道程(1)

 共に暮らして二十年以上にもなれば、以前は特別だったことが当たり前に流されることもある。一方で、意識的に保ち続ける部分も確かにあり、その善し悪しを明瞭にしたがる自分がいることに気づく瞬間もある。
「そういうもんじゃないかもしれないけどな」
 風の音に耳を傾けながら、当麻は呟いて画面に目を戻した。方針を決め次第連絡するとメールしたまま、決めかねて先延ばしにしている仕事が一つ。一応の形にはしたものの、なんとなく納得がいかずに寝かせたままの書類が一つ。二週後から始まるプロジェクトのタイムスケジュールを確認するために開いたものの、ぼんやりと眺めるばかりで少しも頭に入ってこないファイルが一つ。
『まあいい、慌てる必要はない』
 いずれも日程的には余裕のあるものばかりだ。ふうっと短く息を吐いて立ち上がる。サイドテーブルからマグカップを取り上げ、ゆるゆると首を揺らしながら台所へと向かった。
 日付が変わるまで三時間ほど。今日は少し仕事をしすぎたと思いつつ、風呂の湯の沸かし直しをセットする。風呂場とキッチンの両方で処理の開始を告げる電子的なアナウンスが流れているはずだが、浴室での音声は当麻の場所までは届かない。居間・台所と風呂場・洗面所がもう少し近くてもよかったかもしれないとは、住み始めてから感じたことだ。
「風呂場で倒れてても気づけない」
 何かの拍子にそんなことを口にしたら、
「緊急用のブザーでも持って風呂に入るとするか」
 と、征士はまじめくさった表情で言ってから、当麻を見てにやりと笑った。その顔が、普段に似合わずワイルドで、ちょっといいなと思ったのを覚えている。
 その征士は、急な呼び出しで仕事に出た。昼を過ぎた頃のことだ。今日中に戻りたいと思っているが……と言い置いて出かけたものの、表情には厳しさがあった。本来なら今頃はもう、明日の予定を口にしながら布団に入る準備を始めていたはずだ。誕生日を含めた二連休は、静かにのんびりと、普段より二割ほど多くお互いへの想いを表わしながら、穏やかに過ごすつもりだった。
 だが、外は雨。大型の台風が接近し、計画運休の可能性あり、今後の情報に注意を、早めの避難を、とテレビもネットも騒がしいことこの上ない。毎年秋晴れを期待する十月十日は、このままいけば全国的な嵐の一日になりそうだ。征士が出かけたのもその関係だろうと当麻は見ている。
「…の割にはおとなしいよな」
 小窓から外を見遣って呟くと、応えるように電子レンジが温め終了の合図を送る。食べ終わるのが先か、風呂の湯の沸くのが先か。競うように食事を始めたのを征士が見たらきっとまた小言だと、苦笑が漏れるのを止められなかった。
 数年振りの、一人で迎えた誕生日。古いが美しいこの家に越してからは初めてだ。
「日本式の家屋は雨の日を見ておいたほうが良いぞ」
 そんな征士の言葉を聞いたのも、もう随分と昔のことになった。この家は、湿気を含んでやわらかな香りを放ちつつ、征士を、当麻を、ほっとさせる空間を作り出す家だった。当麻の三十二歳の誕生日に、征士が贈った家だった。
 布団の中で目を閉じたまま、深く呼吸を繰り返す。寝室を作るのか、各自の部屋で眠るのか、ベッドにするか、和布団にするか、話し合った日々も懐かしい。結局、寝室に布団を二組。夏場は敷き布団の下にすのこを置いて熱を逃がし、冬場は敷き布団の二枚重ねと羽毛入りの掛け布団で温度を保つ。大事に使ってはいるが、い草のこすれと色あせは避けられず、畳替えも何度か経験した。真新しい畳表の香りが、驚くほどすがすがしく胸に届くものなのだということも知った。寝室という新たな居場所に、少しの照れくささを感じたこともあった。
 すぐそばで眠りはするが、肌を重ねる夜は次第に間遠になる。それでも安定した呼吸や、手の届く範囲で不安を抱えることなく眠る姿に、安堵を覚えて瞼を落としたのはお互いさまだといつからか知る。
 年齢が上がるとともに、体調への気遣いも増えた。誕生日の前日に痛みに慌てて親知らずを抜いたのを機に、当麻は毎年、九月下旬から十月上旬の期間に歯医者へ行くようになった。ありがたいことに虫歯はなく、口内のチェックと歯の表面のクリーニングをしてもらうだけで済んでいる。
「今年も大丈夫でした」
 と、かしこまったフリで報告すると、征士からは、
「それはなにより」
 と、これまた重々しく、さも重大なことを述べるかのように答えが返る。そんな征士のほうも毎年必ず、自分の誕生日に前後して健康診断を受けていた。誕生日がメンテナンスの目安になるなど若い頃には考えなかったことだ。そう気づくと、
「年取ったなあ……」
 と、ついついぼやいてしまうのだが、聞いた征士は
「良いことだ」
 と笑う。無事に月日を重ねていられることも、健康に注意して過ごしていることも、喜ばしいことだと彼は言う。そうなのだろうと当麻も考えるようになった。
『何時に帰ってくるかな』
 思ううちに眠ったようだった。

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