能「籠太鼓(ろうだいこ)」,狂言「佐渡狐(さどぎつね)」

今日も今日とて、能を見に行く私です。
行き過ぎです、すみません(^_^;)。
えっと。今日の席は脇正面の左端。橋掛かり(能舞台の向かって左後方から伸びている廊下みたいな部分ね)のすぐそばです。
ご一緒したのはいつものRちゃん。毎度お世話になってます。
狂言のほうは先日テレビでも放送されていた曲で、私も前半は見ました。
後半はどうしたのかというと……なんとこれが、録画したら最後の8分間だけテレビの不調で撮れなかったという悲しさ…(^_^;)。結末のわからない狂言!(笑)
ということで、今回見るのを楽しみにしておりましたv
簡単にあらすじを説明しておきましょうか。(そろそろ能・狂言の鑑賞記録をつけたくなってきました/笑)
■佐渡狐■
年貢を納めに行く佐渡のお百姓と越後のお百姓が、道中、佐渡に狐はいるかいないかで賭けをします。
賭けるものはそれぞれの腰刀、判定を下すのは年貢を納める領主の館の取り次ぎ役(お奏者といいます)。
ところが実は、佐渡のお百姓は狐など見たことがない。そこでお奏者に袖の下を渡して、佐渡に狐はいるということにしてもらいます。お奏者は狐の姿かたちを佐渡のお百姓に教えておきます。
さて、佐渡のお百姓に続いて越後のお百姓も年貢を納め終え、賭けの話を持ち出します。二人の百姓を前にして、お奏者は言います。
「佐渡に狐は……おる!」
大喜びの佐渡のお百姓、二人分の刀を持っていこうとしますが、納得のいかない越後のお百姓が狐のあれこれを問いただします。お奏者の助けをかりながら何とか佐渡の百姓は答えきり、二人は帰途につきますが、その途中で越後のお百姓がはたと気づきます。
「狐の鳴きかたやいかに?」
佐渡のお百姓は答えることができず、越後のお百姓は刀を奪って意気揚々と去るのでした。
とてもわかりやすい狂言です。あらかじめ筋を知らなくても十分楽しめるものでしょう。
今回の演者は、野村万之介(佐渡)、野村萬斎(越後)、野村万作(奏者)。萬斎さんを基準に見ると、叔父さん・僕・お父さん、ですね(笑)。
この辺りの言い方でもうおわかりでしょうか。私は萬斎さんが好きです(笑)。今、狂言方で好きなのは萬斎さんと高野和憲さん。茂山あきらさんもちょっといいv
そんな感じで見に行っていましたので、最初に萬斎さんが出てきたときからにっこにこ(^_^)。
序盤で佐渡のお百姓が年貢を納めている間、越後のお百姓は橋掛かりの中ほどで待っています。
私の席からだと、5m先に萬斎さん!
ぱちぱちと瞬きしながら彼方を見つめて立っているんですよ。
これが、かわいいんだっ!!!(←ばーかばーか、ヒラノのばーか!/笑)
久々にミーハーな気分で狂言を見てしまいました(大笑)。
そして結末もはっきりとわかり、改めてほっとした私なのでした。
■籠太鼓■
九州の松浦の某(ワキ=脇役)の下人である関の清次(せきのせいじ)は、口論から他郷の者を殺してしまいます。当然つかまって牢屋に入れられますが、たいへん力の強い彼は見張り(アイ=狂言方)の隙をついて逃げ出してしまいます。
代わりに牢に入れられたのは清次の妻(シテ=主役)。清次の行方を尋問する松浦に対し、妻は知らぬと答えるばかり。その情愛の深さに松浦は感心し、夫の罪を許して妻にも牢から出るように言いますが、妻は、
「夫の代わりにいるのです。決してこの牢を出るものですか。これこそ夫の形見、あぁ懐かしや」
と言い、出ようとしません。
そのうちに女は狂気にかられ、牢のそばに掛けてあった時の太鼓を打ちながら、夫を想い、謡い舞います。
松浦は再び心を打たれ、夫婦ともに許すことを改めて約束します。女は、物狂いのふりをやめ、実は知っていた夫の居場所を話しますが、そこで松浦はさらにこう言います。
「今年は私の親の十三回忌にあたる。追善の時の慈悲として、罪あろうとも助けよう」
清次も妻も許され、夫婦は末永く添い遂げたのでした。
序盤から「せいじ」「せいじ」と男の名を連発。すみません、その名前はどうしても「征士」と変換してしまって顔がにやけて仕方ないんですが…(^_^;)。
このところ女神の神々しさや亡霊の物悲しさが印象に残っていたせいか、今回の能はたいへん地味に感じられました。が、その分、じつにしっとりと滋味のある曲でした。
シテは佐野由於さん、ワキは福王和幸さん、アイが三宅右近さん。いずれも特に記憶にはないので、初めて見た方ではないかなと思います。
面白かったのはアイの出番の多さ。能の場合、間狂言(あいきょうげん)と言って、能の前半と後半の間に物語の説明をしたり転換のきっかけになる行動を起こしたりする役として狂言方が登場することが多くあります。ところがこの曲では、アイは最初から出ていて、ワキとのやり取りのみならずシテとも会話をしたりするのですね。しかもいちいち笑わせてくれるし(笑)。こういうのもありなのかと、見方を新たにしたのでした。
また、シテは清次の妻であり、彼女の機転によって万事丸く収まるという話ではあるのですが、個人的にはワキの松浦の某にほれました。福王さんも見た目的にとても似合ってました(笑)。
ワキには中盤、「優しき女の言ひ事かなと、手づから籠の戸を開き、はやこれまでぞ疾く出でよ」というせりふがあります。このとき、言いながら彼はほんとに自分で牢屋の戸を開けてくれるんですね。これがじつに素敵なんです。なんて感じのいい人なんだ~~vvv って思っちゃいましたのです。
この時点では、松浦が本当に許すつもりだったのか、それとも釈放した妻のあとをつけて清次を捕まえようとしていたのかはわかりません。ですが、最初から彼は、「(清次は)思いがけなく相手を殺してしまった」と言っていたような人なので、いずれにしても悪いようにはしたくないといった気持ちが強かったのではないでしょうか。
最後の言い分にしても、親の十三回忌にかこつけて罪を問わないことを誓うわけですよね。そこまで言う懐の深さみたいなものが、私にはとても心地よく感じられたのでした。
そして、シテの舞ですが。これは本当にしみじみとした良さがありました。
華麗でもなければ優雅でもない。下人の妻ですから衣装も着付けもおとなしめ。それだけに、静かに夫を想う心や想い焦がれて狂っていく様子などが、静かなまま(決して激しいものでも恐ろしげなものでもなく)地を這ってゆっくりと周囲に広がっていく。そんな感じがするのです。
最後に松浦とその親との縁を感謝する清次の妻の、心からの微笑が見えるような、「世話物」というのが能にも存在するのだと初めて知った曲でした。
ということで長くなりました。読んじゃいましたか? どうもありがとうございました♪

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